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赤穂義士祭の泉岳寺 中門
切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保七年(一八三六)に再建されたものです。左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門を持っています。また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 中門 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 中門 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 参道の土産物店、屋台
中門を通り抜けると右側には土産物店が並び、左には飲食物や土産の屋台が並ぶ。まだ時間が早いせいか広々とした参道だが、300年祭の時のように義士祭が行われる頃には大混雑必至である。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 参道の土産物店
赤穂名物の「しほみ(塩味)饅頭」の幟が立つ。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 山門
入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間に再建されたものです。楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 山門脇 大石内蔵助良雄像 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 山門脇 現場警備本部 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 山門脇 事前打ち合わせ中の警備陣 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 本堂
桃色の義士祭の幟、黄色の提灯と華やかな境内で、本来は厳粛な墓参りなのに、と思わないことはない。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 本堂
本堂左脇には「萬松山泉岳寺の縁起」の大きな案内板がある。
当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(一六一二)徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(一五四六〜一六二一)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。(以下略) |
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赤穂義士祭の泉岳寺 本堂
本堂の後ろの茶色の建物は二本榎通り(メリーロード高輪)にある東海大付属中高校の校舎で、その右に大石内蔵助が自刃した細川家藩邸がある。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士の墓所へ向かう
本堂の左から参道を歩き、突き当りで右折する。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 水琴窟
何故か鉄製の箱に覆われているが、陶製の壷の水琴窟である。
日本庭園で手水鉢や蹲踞の流水を利用して、地中に伏瓶をした空洞に、したたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした装置で、江戸時代の庭師が考案したものと言われている。
柄杓で水を瓶の穴に滴らせると、澄んだ高音の音色を聞くことが出来る。水琴窟は日本庭園でよく見かけるが、多くは瓶が地中にあり、外に出ているのは珍しい。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 瑶池梅
浅野長矩公の後室 瑶泉院殿 堀部妙海尼に賜りし鉢植の梅 瑶池梅と称し、妙海尼手づから此の地に植えしものなり |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 血染めの石、血染めの梅
田村邸内浅野公自刃の場にありしものなり |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 浅野長矩及び赤穂義士墓所門 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗井戸
吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗井戸 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗井戸
新派劇の創始者で、オッペケペー節で有名な川上音二郎の名前が見える。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 義商 天野屋利兵衛浮図
「天野屋利兵衛は男でござる」のセリフで知られる天野屋利兵衛は、大坂に実在した商人だが、赤穂義士の武器調達をしたという史実はない。
浮図は浮屠とも書き、卒塔婆のことである。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士墓所 参道から見える檀家墓地 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 義士墓所 大石内蔵助良雄之墓
義士墓所については別ページにまとめた。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 赤穂義士記念館 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 本堂の屋根越しに見える東海大付属中高校の校舎
本堂の後ろの茶色の建物は二本榎通り(メリーロード高輪)にある東海大付属中高校の校舎で、その右に大石内蔵助が自刃した細川家藩邸がある。 |
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赤穂義士祭の泉岳寺 山門を出る |