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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 水琴窟
日本庭園で手水鉢や蹲踞の流水を利用して、地中に伏瓶をした空洞に、したたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした装置で、江戸時代の庭師が考案したものと言われている。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 水琴窟
右の柄杓で水を瓶の穴に滴らせると、澄んだ高音の音色を聞くことが出来る。
水琴窟は日本庭園でよく見かけるが、多くは瓶が地中にあり、外に出ているのは珍しい。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 瑶池梅
浅野長矩公の後室 瑶泉院殿 堀部妙海尼に賜りし鉢植の梅 瑶池梅と称し、妙海尼手づから此の地に植えしものなり |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 血染めの石、血染めの梅
田村邸内浅野公自刃の場にありしものなり |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗井戸
吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 首洗井戸 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 参道 義商 天野屋利兵衛浮図
天野屋利兵衛は大坂に実在した商人だが、赤穂義士の武器調達をしたという史実はない。
浮図は浮屠とも書き、卒塔婆のことである。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 浅野長矩及び赤穂義士墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門とLて建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 浅野長矩及び赤穂義士墓所門 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 浅野内匠頭長矩夫人(瑶泉院)之墓
墓所の配置は別に案内があるが、入ってすぐの右手にある。その左が浅野長矩公之墓である。
赤穂義士の墓は区切られており、大石内蔵助の墓は石垣で隔てられているが浅野長矩公之墓の隣である。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 浅野内匠頭長矩夫人(瑶泉院)之墓 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 浅野長矩公之墓 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に司十七士が結集して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に我きを求めた。義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家九名)の四家に預けられた。翌元禄十五年二月四曰、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。
附記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜剱信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。
図の上段と右は細川家、下段は水野家、左は松平家、中央は毛利家である。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 義士墓解説 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 墓所全景
右奥の小屋は大石内蔵助の墓で、その右端が浅野内匠頭の墓である。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 戒名の法則
右に俗名の矢田五郎右衛門助武、左に享年二十九歳と書かれている。中央が戒名で、本来の法参信士が刃劔で囲まれている。即ち「刃」法参「劔」信士である。
これは名誉刑の切腹をした義士とはいえ罪人であり、自刃した武士の戒名の命名法である。 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 大石内蔵助良雄之墓 |
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泉岳寺 赤穂義士墓所 墓所全景 |