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土手通り 地方橋交差点 |
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土手通り 地方橋交差点 山谷堀公園 旧地方橋 |
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土手通りを南下 |
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土手通り キグナス馬道SS前交差点で左折
キグナス馬道SS前交差点は三叉路で、土手通りはここから右折して馬道通りとなり、浅草寺の二天門に向かう。 |
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山谷堀公園 旧山谷堀橋
交差点で左折してすぐにある。 |
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山谷堀公園 旧山谷堀橋 |
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東浅草一丁目交差点で吉野通りを渡る
吉野通りは言問橋西交差点の五差路の一つで、橋場通りの左側で分岐する都道である。
北上すると「東の山谷、西の釜ヶ崎」と言われ、60年代にはよく暴動が発生した旧称山谷があり、明治通りと交差する泪橋交差点は「あしたのジョー」で有名である。更に北上すると小塚原刑場があった南千住駅に至る。 |
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東浅草一丁目交差点の次の信号で右折、石浜通りへ |
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石浜通り 交差点で右折してすぐ 北めぐりん #5 今戸一丁目 |
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石浜通り 今戸神社
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(一〇六三)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水ハ幡を鎌倉鶴ケ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。 応神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓征伐の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。 従って応神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(一四四一)こ千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。 |
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石浜通り 今戸神社 八社参り、七福神
鷲神社の大鳥居前にも掲示されていた八社参りと七福神である。
今戸神社の八社巡りの効能は縁結びであり、七福神は福禄寿である。 |
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石浜通り 今戸神社 |
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石浜通り 今戸神社 境内
普通の神社の境内とは趣が異なり、広々とした駐車場の脇に本殿がある、という感じである。 |
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石浜通り 今戸神社 鈴なりの絵馬
絵馬は2種類あり、雌雄の招き猫(二匹とも右足を上げており、「千客万来」で、左足の「金運招福」ではない)と、お雛様の絵が描かれている。
絵馬が最も飾られる正月前なのでこの程度だが、多い時は一枚一枚が重なって読むことが出来ない。内容は縁結びに関係する願い事である。 |
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石浜通り 今戸神社 茅の輪が飾られた叉木
鷲神社同様、茅の輪くぐりは複雑な手順であり、殆どの人はただくぐり抜けるか、敬遠して叉木の横を抜けるが、写真の女性は手順通りに行い、他の人はなんで面倒なことをするのか、と見ていた。
茅の輪のくぐり方
(1)先ず、茅の輪の前に立って軽く礼をします。左足からまたいで輪をくぐり、左回りに回って元の位置に戻ります。
(2)茅の輪の前で軽く礼をします。右足からまたいで輪をくぐり、右回りに回って元の位置に戻ります。
(3)茅の輪の前で軽く礼をします。左足からまたいで輪をくぐり、左回りに回って元の位置に戻ります。
(4)茅の輪の前で軽く礼をします。左足からまたいで輪をくぐり、ご神前まで進みます。二拝二拍手一拝の作法でお詣りします。 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 沖田総司終焉之地碑、今戸焼発祥之地碑 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 沖田総司終焉之地碑
沖田総司は当地に居住していた御典医松木良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている
碑字は橘右近書
橘右近は落語家で、寄席文字で有名。 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 今戸焼発祥之地碑
今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。 今戸焼の起源は定かではないが、天正年間(一五七三〜九一)に千葉氏のの家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったとも思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である「江戸名所図会」には瓦作りの挿絵がみられ、隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。 近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。 関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。 |
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石浜通り 今戸神社 本殿手前 今戸焼発祥之地碑 |
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石浜通り 今戸神社 本殿
縁結びで有名なため、若い女性グループや、カップルの参拝客だらけである。 |
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石浜通り 今戸神社
当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(一〇六三)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津忖(現今戸)に勧請しました。
應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比盗_社の御祭神にして、嘉吉元年(一四四一)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。
諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結ひの神と崇敬されております。
昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改祢されました。
今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました。 |
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石浜通り 今戸神社 石鳥居越しに見える東京スカイツリー |