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京葉道路 隅田川に架かる両国橋を渡る |
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京葉道路 浅草橋交差点で清杉通りを渡る |
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京葉道路 浅草橋交差点で左折、江戸通りへ |
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江戸通り 馬喰横山の繊維問屋街
問屋と言っても小売する店もあるが、「小売お断り」の掲示をする店も多い。 |
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江戸通り 馬喰町一丁目交差点 |
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江戸通り 馬喰町交差点 |
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江戸通り 小伝馬町交差点で右折、人形町通りへ |
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江戸通り 小伝馬町交差点 伝馬町の三大遺構
都知事安井誠一郎の書であるが、もう少し字が綺麗だといいのに、と思わざるを得ない。 |
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江戸通り 小伝馬町交差点 伝馬町の三大遺構
石町の時の鐘、伝馬町の牢屋敷跡、吉田松陰終焉の地の3件である。吉田松陰は安政の大獄で伝馬町の牢屋敷で刑死した。
地下鉄日比谷線 小伝馬町駅の傍で、江戸通りと人形町通りとが交差する小伝馬町交差点にある。 |
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十思公園前 大安楽寺
小伝馬町交差点を曲がり、人形町通りに入ってすぐにある。大安楽寺は、伝馬町牢屋敷で刑死した人や、安政の大獄で処刑された吉田松陰などの志士の慰霊のため、明治8年に建立された。 |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡)
石町時の鐘、吉田松陰先生終焉之地、傅馬町牢屋敷跡がある公園である。 |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡) |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡)
江戸の牢屋敷は慶長十八年(一六一三)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々与力格の石出帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治八年(一八七五)五月廃止されるまて存続していたものである。
獄舎は、楊座敷、楊屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦三年(一六五七)の収容囚人は一三〇人、であり、安政大獄(一八五九)には吉田松陰ら 十余名が収容されたこともある。 |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡) 松陰先生終焉之地碑、吉田松陰の辞世の歌碑
手前が松陰先生終焉之地碑で、書は文部大臣荒木貞夫で、2.26事件での皇道派の巨魁として有名である。後方には吉田松陰の辞世の歌碑がある。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と書かれているが、摩滅がひどく読み難い。 |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡) 石町の時の鐘 |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡) 石町の時の鐘
江戸時代当初の時の鐘で、初め江戸城にあり、二代将軍秀忠の時是を石町に移し、地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され、幕末まで石町時の鐘として親しまれた。
伝馬町牢に於ける処刑時もこの鐘を合図に執行されたが、定時に鳴るべき鐘が処刑者の延命を願うが如くその都度遅れたとあって一名情けの鐘とも伝えらる。 |
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十思公園(伝馬町牢屋敷跡) |