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銀座線 浅草駅
銀座線 浅草駅〜観音通り〜仲見世通り〜浅草寺 羽子板市〜浅草神社〜馬道通り〜江戸通り 吾妻橋交差点〜駒形橋 駒形堂〜清澄通り〜石原一丁目交差点〜東京都慰霊堂〜旧安田庭園〜国技館通り〜国技館〜両国駅〜国技館通り〜回向院〜両国駅
【撮影記録】
平成30年 12月 8日 曇り 後 晴れ
10:30〜13:00(昼食 10分) 5,700歩(概算 4.0km 地図上の距離 3.8km)
いつも使っている浅草駅の改札口を間違えて雷門方向に出てしまったが、これが浅草駅、と驚くほど朱塗りのきれいな改札口だった。一瞬丸ノ内線か、と思ったほどだった。
羽子板市名物の変わり羽子板は平成を振り返る、という事で秋篠宮結婚など過去のものの展示だった。
久しぶりに東京都慰霊堂、旧安田庭園、国技館に寄った後、以前から気になっていた山東京伝の墓を回向院で探し回って発見、両国駅に戻った。 |
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観音通り 浅草駅出口 浅草寺歳の市(羽子板市)について |
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観音通り 浅草駅出口 浅草寺歳の市(羽子板市)について
浅草寺歳の市(納めの観音)羽子板市
毎月18日は観音さまの「ご縁日」。特に12月の「納めの観音」は一年の締めくくりとして、より多くの参拝者が訪れます。江戸時代、毎年12月17・18日に正月用品や縁起物を売る店が境内に集まり「歳の市」と呼ばれ、それらを毎年この市で求めることを吉例とした人々で賑わう江戸随一の市としてその名が知れ渡っていました。
現在この「歳の市」は、「羽子板市」としてその形をとどめています。これは羽子板でつく「おい羽根」が害虫を食べる「トンボ」に似ているため、悪い虫がつかないとか、またそのかたい「豆」(むくろじ)の部分から「魔滅(まめ)」にあてられ魔除けになる、あるいは「マメに暮らせる」などの縁起を担ぎ、江戸後期の頃から女子の誕生した家に羽子板を贈る風習ができました。これによって羽子板を正月の縁起物として「歳の市」で扱う店が増えていったからだと伝えられています。
現在では「納めの観音ご縁日」の前後も含め、12月17日〜19日に「羽子板市」として境内に数十軒の羽子板の露店が軒を連ねます。年の瀬の風物詩として、いつまでも大切にしたい行事のひとつです。 |
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観音通り 浅草駅出口 浅草寺歳の市(羽子板市)について
江戸押絵羽子板の由来
鎌倉時代の頃から古く伝えられた羽子板ですが、現代のように装飾品として確立されていったのは江戸時代以降とされています。太平な世になり、広く神事や五節句の行事が行われていったのも要因とされています。
新年を迎える大事な行事として定着した羽子板飾りに、蒔絵や古粉といった技法を用いて美しい装飾専用の羽子板が作られていきました。その中でもとりわけ江戸の庶民
に受け入れられていったのが押絵羽子板です。中国から伝わった技法で厚紙に布を張り、綿を入れて立体感を持たせたもので、当時の浮世絵の流行と重なり庶民の間で熱狂的にもてはやされ、歌舞伎の人気役者や、浮世絵の美人画など押絵羽子板の全盛を極めました。今日の押絵羽子板は、その押絵羽子板技法が受け継がれて来たものです。 |
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観音通りを北上 |
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観音通り 左折して新仲通りへ |
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新仲通り 芋ようかんの舟和前で右折、仲見世通りへ |
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浅草寺 正月用の飾り付けがされた仲見世通りを北上 |
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浅草寺 正月用の飾り付けがされた仲見世通りを北上 |
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浅草寺 正月用の飾り付けがされた仲見世通りを北上
かつては大声でグループで傍若無人に振る舞っていた中国人も、ようやく日本に慣れてきたのか、大人しくなったので歩きやすくなった。若い人はなんとなく違いは感じるものの日本人と差はない。しかし、角刈りの父親と垢抜けない母親、いかにもかつての農夫然とした老夫婦の家族連れグループも見かけられる。
あえて写真には撮らなかったが、着物姿の若い女性グループがいくつも見かけられた。しかし、絵柄が今の季節にどう見てもそぐわない浴衣(もちろん薄着ではないが)の柄である。妙に周りの風景から浮き上がっており、話す言葉は中国語だった。このような着物姿は京都や他でもよく見かけるが、いずれも、その場の雰囲気にあっていない。 |
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浅草寺 仲見世通りと交差する伝法院通 |
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浅草寺 仲見世通りと交差する伝法院通 |
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浅草寺 正月用の飾り付けがされた仲見世通りを北上 |
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浅草寺 正月用の飾り付けがされた仲見世通りを北上 |
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浅草寺 宝蔵門 |