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靖国通り 田安門交差点 
階段は除雪されているが、田安門歩道橋上は雪が残っており、気をつけながら靖国通りを渡る。 |
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田安門歩道橋から見た九段坂 
靖国通りと歩道は除雪されているが、それ以外は雪が残っている。 |
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北の丸公園 田安門 
裸木の桜並木が侘しい。 |
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北の丸公園 田安門 千鳥ヶ淵 
田安門に向かって右手の風景である。 |
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北の丸公園 田安門 牛ヶ淵 
田安門に向かって左手の風景で、正面の丸いビルは九段下交差点にある昭和館である。 |
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北の丸公園 田安門 
大手門同様枡形門で、入って直角に右折して第二の門を進む。 |
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北の丸公園 田安門 
江戸城は.長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり.文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し.大城郭としての形が整えられた。その後.明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの.城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
田安門は.北の丸北部に位置する枡形門であり.正面の高麗門と.その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36〜41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり.高い価値を有している。 |
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北の丸公園 田安門 界隈案内図 
現在地は左下角で、その上の茶色のブロックは武道館である。 |
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北の丸公園 武道館  |
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北の丸公園 北の丸休憩所 
武道館前の北の丸休憩所脇を進み、大芝生広場に向かう。休憩所の反対側の木立ちの中に近衛歩兵第一聯隊跡記念碑がある。 |
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北の丸公園 新雪の大芝生広場  |
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北の丸公園 新雪の大芝生広場 
除雪されていないため、足跡が多く付けられているものの、奥に行くほど新雪が残っている。 |
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北の丸公園 新雪の大芝生広場 
元々降雪量が小さいため、泥だらけできれいな雪だるまとは言えない。 |
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北の丸公園 新雪の大芝生広場 
足跡も少なくなり、新雪を踏むとキュッキュと独特の音がして気持ち良い。 |
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北の丸公園 新雪の大芝生広場  |
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北の丸公園 新雪の遊歩道 
遊歩道の左手奥には場所が分かりにくいが、近衛歩兵第二聯隊記念碑がある。 |
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北の丸公園 新雪の遊歩道を出ると、旧近衛師団司令部庁舎前である 
直進すると右手に旧近衛師団司令部庁舎があり、直進すると代官町通りである。左折すると科学技術館がある。 |
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北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎 界隈案内図 
右が北の地図である。北の丸公園を左右に横切るメイン道路が北の丸公園入口交差点の道で、左の茶色の建物が科学技術館、右は武道館である。中央上から右に向かうのが千鳥ヶ淵である。 |
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北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 
弘化四年(一八四七)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(一八四八)青蓮院宮御相続、安政五年(一八五八)輪王寺宮御相続、公現法親王(俗名能久)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。
明治三年(一八七〇)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅令によリプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同五年白川宮を御相続遊ばれた。
同十七年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一旅団長、参謀本部御出仕。同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を御歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘の地で疫病に罹らせ給い、明治二十八年十月二十八日(一八九五)台南に於て薨去遊ばされた。御年四十九歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。 |
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北の丸公園 北白川宮能久親王銅像 
普段は鬱蒼とした木立ちに中にあるが、周りの木々を伐採しているため、銅像や案内板が良く見える。 |
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北の丸公園 旧近衛師団司令部庁舎 
【国指定重要文化財】
明治43年(1910)に完成しました。陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風で、明治洋風建築としては代表的な存在となっています。 関東大震災や弟二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめています。
昭和52年に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわりました。 |
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北の丸公園 突き当たりで左折、代官町通りへ  |