万歩計 トップ 散策点描 目次    菊花展の湯島天神から神田明神、駿河台散策H271119 目次  湯島天神〜神田明神〜駿河台 目次    神田明神(裏参道〜御神殿〜表参道)  ページ ラスト 


万歩計



(Since H14-10-28)

目次









掲示板(一言どうぞ)


湯島駅〜湯島天神〜妻恋坂交差点

【関連サイト】    

 直前のページに戻ります

写真の一覧表へ 


東京メトロ 千代田線 湯島駅 東京メトロ 千代田線 湯島駅 

湯島駅〜湯島天神(菊花展)〜妻恋坂交差点〜神田明神〜湯島聖堂〜ニコライ聖堂〜駿河台〜小川町駅

【撮影記録】
平成27年 11月 19日 晴れ
10:40〜11:40 4,200歩(概算 2.9km 地図上の距離 2.4km)

2週間後にイタリア旅行に行くため、腰痛対策を兼ねて半年ぶりに歩いた・結果は惨憺たるもので、時折屈伸運動を繰り返したが、目標の日比谷公園までに遠く及ばず、駿河台の小川町駅止まりだった。
もっともこうなることを予想して、このコースの目玉である菊花展撮影を最優先とし、普通とは逆の湯島天神から歩き始めたが、これは正解だった。
不忍通り 湯島駅前 天神下交差点 不忍通り 湯島駅前 天神下交差点 

湯島駅のすぐ左手には春日通りと交差する天神下交差点がある。
不忍通り 湯島駅前にある湯島天満宮 参拝路案内 不忍通り 湯島駅前にある湯島天満宮 参拝路案内 

湯島天神への参拝路は男坂、女坂、夫婦坂の3種類があるが、もっとも分かりやすいのは夫婦坂であり、分かりにくいのは女坂である。
不忍通り 最初の信号で右折 不忍通り 最初の信号で右折 

湯島駅で右折して不忍通りを南下、最初の信号で右折すると路地の奥に男坂が見える。
但し、この交差点の信号には地名などの標識がないので注意が必要である。

交差点角には「博多 モツ鍋店 八」があるが、1年前にはラーメン店だった。店を目標にすると間違えるので、天神下交差点から南下して最初の信号と覚えておいたほうが良い。
 湯島天神 天神石坂(天神男坂)前 湯島聖天 心城院 湯島天神 天神石坂(天神男坂)前 湯島聖天 心城院 

 当山はもと宝珠院弁財天と称され、湯島天満宮の境内にありました。湯島天満宮は菅原道真公を祭神としていますが、道真公はとくに聖天(大歓喜天)の信仰が篤く、ために「天満大自在天」ともいわれました。
 ときに元禄七年、湯島天神の別当職にあった天台宗喜見院三世の宥海上人が、道真公と因縁浅からざる大聖歓喜天を奉安し開かれたのが当山のはじめで、この本尊は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。
 以来当山は湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、紀伊国屋文左衛門も当山に帰依された一人でありました。
 享保のころ幕府の財政事情で、幕府が扶助してきた神社仏閣への支出を削減しようと富くじを発行しました。江戸では谷中感応寺、目黒滝泉寺とならび、湯島喜見院が公認で富くじが行われ、江戸の「三富」といわれ、後に江戸各所で行われるようになりました。
 当時の喜見院は相当の境域があった様ですが、明治維新の神仏分離、廃仏の嵐で応時の様相は一変し、寺名も心城院と改められ、今日に至っています。
 当山は開基以来幾度となく発生した江戸の大火・大正大震災や空襲の戦災にも遭うことなくきましたが、堂宇は近年に改修されました。
 さて当山は江戸名水の一つ「柳の井戸」があることから柳井堂と称されこれについて徳川時代の文献には次のようにあります。
  柳の井(江戸砂子 御府内備考)
この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ、垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけづると云う心にて、柳の井と名付けたり。
 この名水により大震災の時、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の唯一の水として生命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けました。
 また境内の弁財天放生池は、元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放し、いまも「亀の子寺」として親しまれ、三百年の昔から信仰の篤い参詣者が絶えません。
 湯島天神 天神石坂(天神男坂)前 湯島聖天 心城院 湯島天神 天神石坂(天神男坂)前 湯島聖天 心城院 
xd1107 湯島天神 天神石坂(天神男坂) 

天神石坂(天神男坂)

三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
江戸時代の書物″御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。

男坂の手前で右折すると女坂である。多少距離はあるが、男坂に比べて楽である。もっとも、男坂と言っても写真で見るほどには急坂ではない。
湯島天神 天神石坂(天神男坂) 湯島天神 天神石坂(天神男坂) 
湯島天神 菊花展 授与所に続く東回廊の菊 湯島天神 菊花展 授与所に続く東回廊の菊 

男坂を上って天神の境内に入ると、北回廊を中心に大規模な菊花展が開かれている。写真は授与所に続く東回廊である。

湯島天神の菊花展は開催期間も長く、規模も都内屈指である。

菊花展の風景は別ページにまとめた。
湯島天神 表鳥居(銅鳥居)前から南下 湯島天神 表鳥居(銅鳥居)前から南下 
湯島中坂上交差点で左折 湯島中坂上交差点で左折 
湯島中坂を下る 湯島中坂を下る 

中坂 (仲坂)  なかざか
 『御府内備考』に「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。
 江戸時代には,二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また『新撰東京名所図会』には「中坂は,天神町1丁目4番地と54番地の間にあり,下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止めあり」とあり,車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは,江戸時代から,湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で,かつては置屋・待合などが多かった。

    まゐり来て とみにあかるき世なりけり
       町屋の人の その人の顔かお   (釈 超空)
湯島中坂下交差点で右折、不忍通りへ 湯島中坂下交差点で右折、不忍通りへ 
不忍通りを南下 不忍通りを南下 
不忍通り 旧町名案内 旧 湯島三組町 不忍通り 旧町名案内 旧 湯島三組町 

 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなったので、江戸へ召し返された家康付の中間、小人、駕籠方3組の者の大縄地(一括して広い土地を賜わる)となった。
 駿河から帰ったので俗に駿河町と呼んだ。その後、元禄9年(1696)町屋を開き、3組の御家人が拝領した上地なので三組町と名づけられた。
 五千円札の肖像の新渡戸稲造は、明治4年数えの9歳で叔父の養子となり上京した。翌年旧南部藩の脇憤義塾(三組町105番地)に寄宿した。近くの湯島天神に兄の病気の全快を祈って水ごりをとった。けなげな稲造を見て神官が声をかけ、説教会に呼んだ。自分自身が光明で自分の信ずる道を進めという教えは、一生の指針になった。
不忍通り 妻恋坂交差点で右折、蔵前橋通りへ 不忍通り 妻恋坂交差点で右折、蔵前橋通りへ 
蔵前橋通り 旧町名案内 神田同朋町 蔵前橋通り 旧町名案内 神田同朋町 

 この界隈は、かつて同朋町と呼ばれていました。同朋町の範囲は、現在の町名では外神田二丁目十〜十五番地と、蔵前橋通りをはさんで外神田六丁目一、二、三番地のあたりに相当します。
 江戸時代の初めごろまで、神田神社にほど近いこの地区は、大きな寺が立ち並ぶ寺社地でした。ところが、「明暦の大火(振袖火事)」(明暦三年・一六五七)によって、神田一帯は焼け野原になってしまいます。翌年、幕府は本格的な江戸の再閥発に乗り出しました。その際、神田神社の裏門周辺は、御坊主衆の屋敷地に指定されたのです。さらに寛文十年(一六七〇)には、町内に商人や職人が住む町も生まれています。
 御坊主衆とは、江戸城内で将軍や大名など、身分の高い武士につかえた法体姿の案内世話役のことで、同朋衆とも呼ばれました。彼らのおもな仕事は、江戸城内の案内や茶、弁当の手配などでした。将軍が外出する際は、長刀をもって從ったそうです。四人の上役を同朋頭(二百石高)といい、この四人だけが将軍や老中、若年寄の用事を担当し、それ以外の御坊主衆は大名たちの用事を務めたとされています。
 また、「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴(滝沢馬琴)は、文政七年(一八二四)、九段中坂からこの同朋町に移り、天保七年(一八三六)までこの町の住人でした。



 
万歩計 トップ 散策点描 目次    菊花展の湯島天神から神田明神、駿河台散策H271119 目次  湯島天神〜神田明神〜駿河台 目次    神田明神(裏参道〜御神殿〜表参道)  ページ トップ