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墨堤通り 千住曙町交差点で川の手通りを渡る |
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墨堤通り 千住曙町交差点で川の手通りを渡る
都道314号新言問大谷田線の一部に「川の手通り」の愛称が最近付けられた。交差点で右折し、千住汐入大橋を渡ると汐入公園で、川の手通りは隅田川沿いに南下する。 |
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墨堤通り 旧綾瀬川に架かる綾瀬橋 |
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墨堤通り 旧綾瀬川に架かる綾瀬橋 |
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墨堤通り 旧綾瀬川に架かる綾瀬橋
下流側に汐入公園が見える。 |
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墨堤通りを南下 堤通二丁目交差点 |
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墨堤通りを南下 「鐘ヶ淵」の由来
「鐘ヶ淵」の由来
江戸時代に、うぐいすの名所として知られた鐘ヶ淵は、隅田川のうち、現在の区立鐘淵中学校のある堤通二丁目地先をさす名称です。
その地名の起りは、隅田川がこの辺で直角に曲り、それが大工の使う指矩(さしがね)に似ているところから「かねが淵」と呼ばれるようになったことによります。
なお、ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、とくにその名が高くなった所です。
後世、この名称からさまざまの伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際その梵鐘(ぼんしょう)が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという話や、その寺を石浜の法源寺(現 保元寺)といい、あるいは橋場の長昌寺とも称し、またある将軍が家臣を水中に潜らせて、その鐘をみとどけさせたなどという話などが伝えられています。
やがて明治の世となり、この周辺の開発が進むと、ここに紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社と称したことから、後に鐘紡の名で知られるようになりましたが、昭和四十四年に鐘紡も閉鎖され、しだいに現今のような景観に変ってきました。 |
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墨堤通りを南下 東白鬚公園 |
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墨堤通りを南下 鐘ヶ淵陸橋交差点で鐘ヶ淵通りを渡る
左折すると東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅に向い、右折すると隅田川に架かる水神大橋を経て汐入公園に出る。 |
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墨堤通りを南下 鐘ヶ淵陸橋交差点 界隈案内図 |
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墨堤通りを南下 防災高層都営アパート群
隅田川の東側には防災と避難場所を兼ねた東白鬚公園が広がり、その東には防災高層都営アパート群が建ち並ぶ。 |
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墨堤通りを南下 梅若公園 榎本武揚像
折角の案内板であるが、劣化がひどくて全く読めない。Webで調べたが判明できず、多少異なるかもしれないが、11年前に訪れた時の案内文を掲載する。
榎本武揚像
武揚は、天保七年(一八三六)下谷三味線堀(現台東区)に生まれました。天性聡明で学問を好み、天性聡明で学問を好み、昌平黌で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びます。幕府が長崎海軍伝習所を開設するや選ばれて入所し、オランダ人教官により洋式海軍技術を習得、蒸気機関や機械製造等に関しても研究、当時未知の学問であった化学までも学びました。さらに文久二年(一八六二)にオランダに留学、今まで学んできたことをいっそう深めると共に国際法も修めました。
オランダから帰国すると、軍艦奉行から海軍副総裁へと進み、幕府海軍の柱となります。やがて幕府が崩壊するや幕府海軍を率いて函館の五稜郭により、官軍と戦いますが、敗れて捕えられます。然し、明治新政府の中にも彼の人物を惜しむ声が強く、明治五年許されて出獄します。当時難問とされた樺太帰属問題解決のため、彼は海軍中将に任ぜられ、特命全権公使として露都ペトログラードに派遣され、みごと交渉に成功します。
その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功により子爵を授けられます。
晩年は向島に住み、墨堤を散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、明治四一年に七三才の生涯を閉じました。 |
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墨堤通りを南下 梅若公園 榎本武揚像
勲一等正二位 子爵 海軍中将 榎本武揚の像である。
榎本武揚は天保7年(1836年)下谷三味線堀に生まれ、文久2年(1862年)にオランダに留学、帰国後海軍副総裁になった。函館の五稜郭で官軍に敗れ下獄したが、明治5年に出獄、海軍中将として千島樺太交換条約を成功させた。後に外務、農商務などの大臣を務め、子爵に叙された。 |
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墨堤通りを南下 隅田川神社参道蹟
唐突に隅田川神社参道蹟の石碑が立てられている。「蹟」なので隅田川神社はどうなっているのか気になる。 |
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墨堤通りを南下 隅田川神社参道 |
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墨堤通りを南下 隅田川神社参道
鳥居の左には「水神社」、「船霊社」の碑がある。隅田川神社は古くは水神社と言われ、明治5年に現社名となった。
手前の鐘ヶ淵陸橋交差点の右手に隅田川神社の古名に因む水神大橋があるので、立ち寄ることにした。 |
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墨堤通りを南下 防災高層都営アパートの間の参道を西進 |
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東白鬚公園 隅田川神社の参道を西進
避難場所としての公園
公園の東側には13階建ての高層住宅が建ち並んでいます。そこには、防災シャッターや避難用ゲートなどが設置され、屋上には広場散水用放水銃(公園に吹き込む熱風や火の粉を冷却し避難者の安全を守る)もあり、非常時に備えています。東白鬚公園では、非常災害時に避難広場として機能するため、さまざまな工夫が凝らされています。
火の粉、熱風から守るための樹木を多く植えていることもその一つといえるでしょう。南と北に一つずつある池は、避難者の衣服や荷物についた火の粉を消すためのもの。地盤も、地震災害時に備えて周辺よりも高くなるように処理されています。
もちろん避難場所として避難者が生活することも想定されています。そのため、平常時のトイレに加えて非常時には上屋を取り付ければすぐに使える非常用トイレを設置しています。 |
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東白鬚公園 隅田川神社の参道を西進 |
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東白鬚公園 隅田川神社の参道を西進
突き当りには隅田川神社の鳥居が見える。 |
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東白鬚公園 隅田川神社の参道を西進
隅田宿跡
当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
隅田宿は、治承四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代まてには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
また、室町時代成立の『義経記』には、「墨田の渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
対岸との関係にっいては今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図g参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
なお、人買にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老婆と娘の悲話を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名なな伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。 |
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東白鬚公園 隅田川神社 |
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東白鬚公園 隅田川神社
水神の森跡
荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎖守の森でした。川を下ってきた人々にとっては隅田川の入口の森として、川さかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる格好の目印
となっていました。
その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。 |
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東白鬚公園 隅田川神社
社殿の瓦には水神社を表す「水』の金文字が煌めいている。
後方の高架は首都高6号向島線である。 |
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東白鬚公園 隅田川神社
社殿前には五分咲きの白梅が咲いている。 |
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東白鬚公園 防災高層都営アパートに設置された放水銃
実際にはどのように使われるのかは分からないが、棟ごとに数ヶ所放水銃が設けられている。 |