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年末の上野公園(東京藝術大学〜大噴水(噴水池)〜紅葉、黄葉の公園中通り)

【関連サイト】   山手線外回りH2502(上野公園(旧音楽学校奏楽堂〜大噴水)〜上野駅 公園口)
谷中霊園〜上野公園〜隅田公園〜東京スカイツリー散策H230407(上野東照宮〜桜並木〜上野駅)

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都道 神田白山線 直進して上野公園へ 都道 神田白山線 直進して上野公園へ 

交差点名はないが、道の左右は東京藝術大学である。
都道 神田白山線 東京藝術大学 大学美術館 都道 神田白山線 東京藝術大学 大学美術館 
都道 神田白山線 上野公園 東京藝術大学 都道 神田白山線 上野公園 東京藝術大学 
都道 神田白山線 上野公園 博物館動物園駅跡 都道 神田白山線 上野公園 博物館動物園駅跡 

交差点左の石像建物は博物館動物園駅跡である。昭和8年、京成本線開通にあわせ開業したが、老朽化が進み、ホームも4両編成対応だったため、平成9年営業停止、16年に廃止となった。
上野公園 旧東京音楽学校奏楽堂前広場 上野公園 旧東京音楽学校奏楽堂前広場 
上野公園 旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財) 上野公園 旧東京音楽学校奏楽堂(重要文化財) 

 この建物は、明治二十三年(一八九〇)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育の記念碑的な存在である。
 中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。
 この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み、取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和六十二年三月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に復元された。

門が閉鎖されて入れないが、滝廉太郎像が旧奏楽堂入口の右にあり、彫刻家の朝倉文夫作である。
 上野公園 東京都美術館沿いに東進 上野公園 東京都美術館沿いに東進 
 上野公園 東京都美術館沿いに東進 上野公園 東京都美術館沿いに東進 
上野公園 東京国立博物館 上野公園 東京国立博物館 
上野公園 大噴水(噴水池) 上野公園 大噴水(噴水池) 

ながらく大噴水を中心とした竹の台は白い工事用防護壁で覆われていた。噴水池の周辺は変わったとも思えないが、大噴水前広場に大きな休憩所が出来、中高校の修学旅行生で賑わっている。
上野公園 大噴水前広場 上野公園 大噴水前広場 

大噴水広場の右の木立には寛永寺根本中堂跡の案内、その傍らのカンザクラなど面白いものがある。
 上野公園 大噴水前広場 スターバックス 上野恩賜公園店 上野公園 大噴水前広場 スターバックス 上野恩賜公園店 

上野公園には所々にベンチが置いてあるが、しっかり休憩できる場所はなかった。大噴水など竹の台地区整備の一環で出来た大きな休憩所で、それがコーヒーのスタバであり、賑わうのは当然である。

広場を挟んで反対側にも大きな上野の森パークサイドカフェがある。
上野公園 大噴水前広場 ヘブンアーティスト(大道芸) 上野公園 大噴水前広場 ヘブンアーティスト(大道芸) 

上野公園では許可があれば様々な大道芸がヘブンアーティストとして演じられる。土、日でもないのに演じられるのは珍しいが、後ろに東京都から貸与された「公演中」の旗と、「スペインのバグパイプ演奏」と書かれた案内板が掲示されている。
上野公園 公園中通り 上野東照宮 大石鳥居 上野公園 公園中通り 上野東照宮 大石鳥居 

上野動物園に隣接する上野東照宮入口の大石鳥居が見える。桜の時期には大勢の人で賑わう。
上野公園 公園中通り 裸木の侘びしさが漂う桜並木 上野公園 公園中通り 裸木の侘びしさが漂う桜並木 

満開の時には桜並木が大アーチとなる。
上野公園 公園中通り 上野大仏、パゴタを彩る紅葉のモミジ 上野公園 公園中通り 上野大仏、パゴタを彩る紅葉のモミジ 

かつて大仏山と言われた丘の上には大仏像があったが、関東大震災で面部が落下し、体は金属供出令で供出された。現在は面部が飾られている。
上野公園 公園中通り 五條天神社界隈の公園案内図 上野公園 公園中通り 五條天神社界隈の公園案内図 

北は左下で、右に不忍池がある。
上野公園 公園中通り 五條天神社界隈 紅葉のモミジ 上野公園 公園中通り 五條天神社界隈 紅葉のモミジ 
上野公園 公園中通り 紅葉のモミジ、黄葉の桜 上野公園 公園中通り 紅葉のモミジ、黄葉の桜 
上野公園 公園中通り 清水観音堂界隈の紅葉のモミジ 上野公園 公園中通り 清水観音堂界隈の紅葉のモミジ 

丘の上には清水観音堂が見える。
 上野公園 公園正面入口 蜀山人の碑 上野公園 公園正面入口 蜀山人の碑 

正面入口手前の木立にひっそりとある。

 一めんの花は碁盤の
 上野山 黒門前に
 かかるしら雲        蜀山人

 碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
 蜀山人は姓を大田、名を覃、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝・四方赤良など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲・朱楽管江とともに、三大家と評された。文政六年(一八二三)没。
 江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和十三年、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土色豐かな建碑といっていい。
 上野公園 公園正面入口 蜀山人の碑 上野公園 公園正面入口 蜀山人の碑 
上野公園 公園正面入口 上野公園前交差点で左折、動物園通りへ 上野公園 公園正面入口 上野公園前交差点で左折、動物園通りへ 
上野公園 公園正面入口 上野公園 公園正面入口 

手前には「日本の公園100選」の銘板がある。

 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことがら公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさがら公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。



 
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