佐賀町河岸通りを少し下流に歩き、読売新聞の建物脇にある平賀源内電気実験の地の碑など、名所、旧跡、意外なもの、歴史的なものなどを、豊富なコメント付き写真で紹介。"> 万歩計 散策点描 年末の下町散策(神保町〜人形町〜富岡八幡宮〜築地場外市場)H251224 清洲橋通り〜清澄通り〜富岡八幡宮・深川不動尊(清洲橋通り〜清澄通り〜門前仲町交差点)
 
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清洲橋通り〜清澄通り〜門前仲町交差点

【関連サイト】   都営大江戸線H2412(森下駅〜清澄通り〜深川 霊巌寺)
都営大江戸線H2412(清澄通り〜深川えんま堂(法乗院)〜門前仲町駅)
東京の名園 清澄庭園・清澄公園

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清洲橋通り 首都高6号向島線下を進む 清洲橋通り 首都高6号向島線下を進む 
清洲橋通り 隅田川に架かる清洲橋 清洲橋通り 隅田川に架かる清洲橋 
清洲橋通り 隅田川に架かる清洲橋 清洲橋通り 隅田川に架かる清洲橋 

土木学会選奨土木遺産の碑で、碑文には以下のように書かれている。

「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
清洲橋通り 清洲橋の上流に見える萬年橋、芭蕉庵 清洲橋通り 清洲橋の上流に見える萬年橋、芭蕉庵 

向側には小名木川河口の萬年橋が見え、その左には芭蕉庵があり、芭蕉像がある。この一帯は芭蕉の遺跡が多い。
清洲橋通り 清洲橋の上流に見える東京スカイツリー 清洲橋通り 清洲橋の上流に見える東京スカイツリー 

上流側に東京スカイツリーが見える。紅白の東京タワーとは違い、銀灰色の東京スカイツリーはさり気なく風景に溶けこむ。
清洲橋通り 清洲橋東詰交差点 清洲橋通り 清洲橋東詰交差点 

清洲橋を渡って右折、清洲橋東詰交差点から隅田川沿いに佐賀町河岸通りを少し下流に歩いた読売新聞の建物脇に平賀源内電気実験の地がある。

平賀源内は享保13年に高松藩士の子として生まれた。様々な実験や、物産開発などに努めた。
清洲橋通り 清洲橋東詰交差点 陸奥宗光宅跡 清洲橋通り 清洲橋東詰交差点 陸奥宗光宅跡 

 陸奥宗光は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(一八四四)、和歌山藩士伊達宗広(千広)の第六子として生まれ、明治三〇年(一八九七)、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へ出ました。文久二年(一八六二)に脱藩し、京都で尊王攘夷運動に加わり、のち坂本龍馬の海援隊に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治一〇年(一八七七)、西南戦争に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は外務省に入り、明治二三年(一八九〇)、第一回衆議院選挙で当選。苹二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(一八九四〜九五)の開戦と講和に関わりました。
 宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは明治五年(一八七二)から同一〇年(一八七七)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。
 この邸宅は、隅田川に面して眺望がよく「三●水碧楼」と呼ばれていました。(● さんずいに叉)
清洲橋通り 清洲橋東詰交差点 界隈案内図 清洲橋通り 清洲橋東詰交差点 界隈案内図 

実際に歩く方向にあわせて描かれており、右下角が北である。

現在地の赤印から清洲橋通りは斜め左下に進み、細道を直進すると清澄庭園・中村学園通りで、左の緑のブロックの清澄庭園に向かう。中村学園は清澄庭園の正門前にある小規模な学校で、ELTボーカルの持田香織は卒業生である。
清洲橋通り 中村学園北交差点で左折 清洲橋通り 中村学園北交差点で左折 

清洲橋通りを進み、清澄町二丁目歩道橋前交差点で左折すると交差点手前角に、大鵬、北の湖に因む横綱通りの案内板がある。しかし、恒例の年末の予算消化の道路工事のため左折できず、中村学園北交差点で左折した。
清洲橋通り 大相撲 錣山部屋 清洲橋通り 大相撲 錣山部屋 

左折してすぐ右手にある。錣山部屋に限らず、大鵬道場・大嶽部屋、北の湖部屋も独特な玄関と看板がなければマンションである。
清洲橋通り 大相撲 大鵬道場・大嶽部屋 清洲橋通り 大相撲 大鵬道場・大嶽部屋 

清洲橋通りから入り、横綱通りの最初の角の右側にある。大鵬の女婿である関脇貴闘力が野球賭博で追放された頃、白壁3階建てのビルを建て直していた。
清洲橋通り 大相撲 大鵬道場・大嶽部屋 清洲橋通り 大相撲 大鵬道場・大嶽部屋 

ビルの前の道路が横綱通りで、清洲橋通りで左折すると角にこのビルが見える。角で右折すると斜めに北の湖部屋がある。
清洲橋通り 大相撲 北の湖部屋 清洲橋通り 大相撲 北の湖部屋 

大鵬道場・大嶽部屋の反対側にあり、2階から干されている黒いけいこまわしがなければ普通のマンションにしか見えない。入口には北の湖部屋の門札がある。
清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 
清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 清洲橋通り 清澄三丁目交差点で右折、清澄通りへ 
清澄通り 清澄庭園 清澄通り 清澄庭園 

清澄庭園の入口は右折し、清澄庭園・中村学園通りを西進する。
中村学園は清澄庭園の正門前にある小規模な学校で、ELTボーカルの持田香織は卒業生である。

清澄庭園は江戸の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸と言われ、関宿の城主久世大和守の下屋敷を経て明治になり、三菱財閥の岩崎彌太郎が深川親睦園として買い取り、その後隅田川から水を引いて大泉水を作ったりした。関東大震災で避難場所としての価値に注目され、岩崎家から東半分を東京市に寄付された。戦後に西半分も清澄公園となった。
清澄通り 深川江戸資料館通り 清澄通り 深川江戸資料館通り 

清澄通りを挟んで清澄庭園の反対側に、深川江戸資料館通りがある。入ってすぐに寛政の改革を行った白河藩主松平定信の墓所があり、江戸六地蔵が置かれている霊巌寺がある。
清澄通り 滝沢馬琴誕生の地 清澄通り 滝沢馬琴誕生の地 

仙台堀川に架かる海辺橋の手前の深川老人福祉センターの前にある。案内板の下には滝沢馬琴の代表作である南総里見八犬伝、全106冊を表現したモニュメントがある。

滝沢馬琴は江戸時代後期の小説家。明和四(一七六七)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(一八四八)年十一月六日、八十二歳で病没しました。名は興邦、曲亭馬琴・著作堂主人などと号しました。
清澄通り 仙台堀川に架かる海辺橋 清澄通り 仙台堀川に架かる海辺橋 
清澄通り 仙台堀川に架かる海辺橋 清澄通り 仙台堀川に架かる海辺橋 

裸木であるが、仙台堀川沿いには見事な桜並木がある。
清澄通り 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る 清澄通り 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る 
清澄通り 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る 清澄通り 深川一丁目交差点で葛西橋通りを渡る 
清澄通り 首都高9号深川線の高架下を南下 清澄通り 首都高9号深川線の高架下を南下 
 清澄通り 門前仲町交差点で左折、永代通りへ 清澄通り 門前仲町交差点で左折、永代通りへ 
 清澄通り 門前仲町交差点で左折、永代通りへ 清澄通り 門前仲町交差点で左折、永代通りへ 



 
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