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栗林公園
本園の起こりは、元亀、天正の頃から当地の豪族であった佐藤氏によって、西南地区(小普陀付近)に築庭されたのに始まるといわれ、その後、寛永年間(1625年頃)讃岐領主生駒高俊公によって、南湖一帯が造園され、寛永19年(1642年)入封した松平頼重公(水戸光圀公の兄君)に引き継がれた。
以来5代松平頼恭公に至る100年余の間、歴代の藩主が修築を重ねて延亨2年(1745年)に完成されたもので、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり、下屋敷として使用された。
明治4年(1871年)高松藩が廃され、新政府の所有となったが、明治8年(1875年)3月16日、県立公園として一般公開され、現在に至っている。 |
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栗林公園
本園は、元亀、天正(1572年〜1593年)の頃、当地の豪族佐藤氏によって、小普陀付近に築庭されたのに始まるといわれ、その後寛永年間(1625年頃)当時の讃岐領主生駒高俊公が紫雲山を背景に南湖一帯を造園し、更に寛永19年(1642年)に入封した高松藩主松平頼重公(水戸光圀公の兄)に引き継がれる。
以来5代頼恭公に至る100年余の間、歴代藩主が修築を重ねて延亨2年(1745年)完成し、明治維新に至るまで松平家11代228年間にわたり下屋敷として使用された。
本園は、南庭と北庭に分かれ、6つの池と13の丘があり、南庭は江戸時代初期の回遊式大名庭園である。また北庭は鴨場として使われていたものを明治末から大正初期にかけて近代的に整備改修した庭園である。 |
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栗林公園 東門(切手御門)
東門は江戸時代には「切手御門」と呼ばれ、藩士たちの通用門とされていた。
手前、外堀に架かる橋は、かつては高松城の外濠に架かっていた常磐橋の一部を移築したもの。
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栗林公園 東門(切手御門) |
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栗林公園 東門 熱中症計は危険
現在時刻は10:40で、温度34.0℃、湿度は69%、熱中症計は危険である。
45分前の高松城月見櫓では、温度34.3℃、湿度は56%、熱中症計は警戒であった。温度は変わらないが、急速に湿度が上がってきている。 |
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栗林公園 東門 栗林公園 案内図 |
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栗林公園 案内図
ボランティアのダイドの勧めにより、東門から直進して紫雲山に向かい、お手植松で左折、北湖、南湖を巡る1時間コースを歩くことにした。
案内図で中央下端が東門で、紫雲山に向かい、途中で左折して水色の北湖、南湖を巡ることになる。 |
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栗林公園
後方(西)の紫雲山を借景とする庭園である。 |
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栗林公園 商工奨励館 |
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栗林公園 |
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栗林公園 お手植松
前に並んでいる背丈の高い5本の松は、次の方々がご来園賜ったときに記念してお手植えになられた松です。向かって右から
・秩父宮殿下(大正3年)
・高松宮殿下(大正3年)
・エドワード・アルバート王太子殿下(大正11年)
女王エリザベス二世(イギリス国王)のおじにあたり、
エドワード8世としてイギリス国王に就任したが、
恋する女性のために国王の地位をわずか11ヶ月
足らずで退き、「王冠を捨てた恋」として有名です。 ・良子女王殿下(大正12年)
・北白川大妃殿下(大正14年)
なお、一番右側には昭和天皇が大正3年皇太子殿下のとき、お手植えになった黒松がありましたが、落雷のため平成17年2月枯死しました。 |
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栗林公園 お手植松 |
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栗林公園 鶴亀松(別名 百石松)
110個の石を組み合わせ亀を形どった岩組の背中に鶴が舞う姿をした黒松を配したものであり、園内でも最も美しい姿をした松である。 |
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栗林公園 鶴亀松(別名 百石松) |
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栗林公園 ストリートビューの撮影をするグーグル社員
全方向カメラを付けた三輪車を動かし、撮影しているが、ゆっくり撮影するので汗だくである。 |
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栗林公園 北湖
根上り樫付近から北湖沿いに歩くことになる。 |
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栗林公園 根上り樫 |
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栗林公園 根上り樫
明治の末、この位置に幹が二股に分かれた老松があり、樫がこの松の分かれ又の部分に生えていた。成長と共に樫の根は、松の空洞化した幹の中を通り地中まで下ろしていたが、その後、老松が枯死したため、この根上り樫ができたものである。県の天然記念物に指定されている。
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栗林公園 北湖
この池泉内には、前嶼、後嶼の二島、その奥に富士を縮景した芙蓉峰を築き、手前には求心点として朱塗りの梅林橋を架けるなどの景勝地の一つとなっている。
この北湖は、南湖に対する命名であり、南湖に次ぐ大池泉であり、特に白い玉敷の汀線の美しさを青い池面にくっきりと見せている。
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栗林公園 北湖 |
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栗林公園 北湖 |
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栗林公園 梅林橋 |
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栗林公園 梅林橋
別名「赤橋」と呼ばれ、緑一色の湖景に一点朱色が鮮やかに映え、付近庭景に対する見争事な引締め役となってぃる。 |