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本郷通り 飛鳥山交差点 飛鳥山交番横から飛鳥山公園に入る |
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飛鳥山公園 多目的広場
飛鳥山交番横の階段を登った所にある何もない広場で、普段は子供たちが遊んでいるが、花見のシーズンだがせいぜい4〜5分咲で閑散としている。 |
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飛鳥山公園 多目的広場、飛鳥舞台
左手奥には木張りの飛鳥舞台がある。以前休日に公園に来た時、花見のアトラクションが行われていた。 |
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飛鳥山公園 多目的広場から桜並木へ |
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飛鳥山公園 桜並木広場
多目的広場から階段を上った所にある広場で、ここで右折して南下する。ママ友グループが幼児を連れて花見をしたり、現役を離れた高齢者が花見の宴を張っている。 |
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飛鳥山公園 桜並木広場 |
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飛鳥山公園 桜並木広場
右手奥には「象山先生桜賦」の碑があり、左手には明治維新百年植樹記念碑がある。 |
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飛鳥山公園 桜並木広場 |
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飛鳥山公園 桜並木広場 明治維新百年植樹記念碑 |
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飛鳥山公園 桜並木広場 「象山先生桜賦」の碑
表面に佐久間象山作・書による「櫻賦」が、裏面に象山の門弟たちによる碑建立の経緯が記されています。
信濃国松代藩士であった佐久間象山(一八一一〜一八六四)は、幕末の志士たちに影響を与えた儒者てした。櫻賦は、象山が門弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中の万延元年(一八六〇)に作られたといわれます。賦とは、古代中国の韻文の文体の一つて、都城の賛美に多く使われました。
「皇国の名華あり、九陽の霊和を集む」と始まる桜賦は、日本の名華、桜が陽春のなかで光り輝く様を描写し、桜の花は見る人がいなくても芳香をただよわせる、と結んでいます。蟄居中だった象山が勤王の志を桜に託した詩と考えられています。
明治十四年(一八八一)、門弟の勝海舟、北沢正誠、小松彰らによって、碑が建立されました。表面の桜賦は、顔真卿の書風による象山の遺墨によっています。表面上部の扁額および裏面の碑文は名筆家として知られた日下部東作(嗚鶴)、刻字は、やはり名工といわれた廣群鶴によるものです。
碑は初め飛鳥山の西北端の頂き(地主山)に建っていましたが、同所へ展望塔スカイラウンジ(飛鳥山タワー)を建てるにあたり、昭和四十一年に現在地へ移転されました。その際、都立王子工業高校の考古クラブの発掘によって、ここ象山が暗殺された際の血染めの挿袋を納めた石室が発見されました。石室もともに移設され、現在の碑の下に埋設されています。 |
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飛鳥山公園 桜並木広場 「象山先生桜賦」の碑
桜の賦は、松代藩士で儒者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。
この賦は象山50歳(万延元年 1860)の作と云われ2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜った。象山は蟄居赦免となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠の文で書は日下部鳴鶴である。明治14年11月15日と刻まれている。この下に挿袋石室が埋蔵されている。 |
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飛鳥山公園 JR線路沿いの桜並木を南下
まだ上野公園のように満開とは言えず、4〜5分咲のため花見の宴の数は少ない。 |
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飛鳥山公園 JR線路沿いの桜並木を南下 |
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飛鳥山公園 三叉路を右折
JRの王子駅南口から線路沿いの坂道を上って飛鳥山公園に入った付近の三叉路で右折する。 |
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飛鳥山公園 花見の宴風景 |
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飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山の歴史碑
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この上の旭重山(現在の展望台の所)に飛鳥明神が祀られていたからと伝えられています。 |
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飛鳥山公園 遊歩道から見た多目的広場 |
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飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文ニ年(一七三七)に碑を建立した。
石材は、紀州から献上されて江戸城内滝見亭にあったものである。碑文は、幕府の儒臣成島道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立にいたる経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治政が行き届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。
碑は、総高二一八.五cm、厚さ三四.五cm。元亨年中(一三二一〜二四)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記されている。最後に、吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異体字や古字を用い、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を理解する上で重要な資料である。 |
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飛鳥山公園 遊歩道 飛鳥山碑 |
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飛鳥山公園 遊歩道 明治三十七八年 戦役記念碑
児童エリアの手前にあり、都内のあちこちにある日露戦争の戦勝記念碑である。普通表面にある揮毫者の名前はない。 |
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飛鳥山公園 児童エリア |
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飛鳥山公園 児童エリア 熱中症計は注意
現在時刻は10:50で、温度27.0℃、湿度38%、熱中症計は注意である
前回は王子神社の10:25で、温度19.1℃、湿度は26%、熱中症計はほぼ安全であった。温度、湿度ともにはだいぶ上がり、薄手のシャツではあるが汗をかいてきた。 |
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飛鳥山公園 児童エリア
いつ来ても子どもたちで賑わっているが、近くの保育園、幼稚園の園児の数も多く、騒がしい。 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 紙の博物館
飛鳥山公園の南端に並ぶ「飛鳥山3つの博物館」である。 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 紙の博物館
紙の博物館では、日本の伝統的な「和紙」、近代日本の経済発展を支えた「洋紙」の両面から、紙の歴史・文化・産業を紹介しています。40,000点の資料と15,000点の図書を保管して展示公開する、世界でも数少ない紙専門の総合博物館です。
紙の博物館は、昭和25年(1950)6月8日、「洋紙発祥の地」として知られる東京都北区王子に設立されました。王子は、明治初期に近代的な製紙工場のさきがけとなった抄紙会社(後の王子製紙王子工場)が設立された地で、”洋紙発祥の地”として知られています。
昭和24年(1949)、占領政策の過度経済力集中排除法によって、王子製紙は苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割されました。これを機に、翌昭和25年(1950)王子製紙紙業史料室の資料を一般公開し、広く社会教育に貢献するために、王子工場で唯一焼け残った電気室の建物を利用して、紙の博物館の前身である「製紙記念館」が設立されました。
その後、首都高速中央環状王子線建設によって工場跡地を離れることとなり、平成10年(1998)飛鳥山公園の中に「飛鳥山3つの博物館」のひとつとしてリニューアルオープンしました。現在は、製紙関連の会社を中心に、多くの維持会員会社の協力によって運営されています。 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 北区飛鳥山博物館 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 北区飛鳥山博物館 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館前の風景 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館前の風景 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 平和の女神像
この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北区民有志を中心とした「日中友好・世界平和祈念「平和の女神像」建立の会」と、北区、北区議会、北区自治会連合会、区内企業、関連団体等が力を合わせ、一九七四年に、飛鳥山公園に建立したものです。
作者は、長崎市「平和祈念像」の作者として有名な故北村西望氏です。
当初は、大噴水のあった中央広場に建立いたしましたが、一九九八年三月、公園の大規模な改修に伴い、現在の場所に移設いたしました。
なお、台座の裏に「女神像建立の辞」があります。 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 平和の女神像 |
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飛鳥山公園 飛鳥山3つの博物館 渋沢史料館
渋沢史料館は、日本の近代経済社会の基礎を築き、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面においても指導的役割を果たした渋沢栄一の全生涯にわたる資料を収蔵、展示しています。
旧邸跡の一部である旧渋沢庭園には、大正時代の貴重な建物「晩香廬」と「青淵文庫」が残されており、庭園とともに当時の様子をうかがうことができ、渋沢栄一をより身近に感じていただけます。 |
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飛鳥山公園 旧渋沢庭園 青淵文庫 |
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飛鳥山公園 旧渋沢庭園前の遊歩道を南下 |
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飛鳥山公園 旧渋沢庭園
飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が、1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘」跡です。約28,000uの敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。
南出入口の手前、左手に旧渋沢庭園の入口がある。開放時間に制限があるが、入場は無料である。 |
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飛鳥山公園 南出入口 公園案内図 |
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飛鳥山公園 南出入口で左折、本郷通りを南下 |
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飛鳥山公園 南出入口 旧渋沢家 飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛鳥山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入りロとなる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣エの「青淵文庫」、このニ棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督をしています。当時の世界的なデサイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建築物)に指定されました。 |