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晴海通り 隅田川に架かる勝鬨橋 |
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晴海通り 勝鬨橋 勝鬨橋之記
勝鬨橋の西詰にある碑である。
明治三十七・八年の戦役に於いて皇軍大捷す。京橋区民は之が戦勝を記念し此処に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す。
昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事変勃発せるも今年六月功を竣ふ。即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす。
昭和十五年 東京市長撰
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晴海通り 軍艦操練所跡
晴海通りの築地六丁目交差点手前にある。
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(一八五七)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。
万延元年(一八六〇)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(一八六五)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の様式ホテル館が建てられました |
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晴海通り 築地六丁目交差点
左折し、すぐに以前は別の軍艦操練所跡の碑があった。さらに進むと波除稲荷神社があり、そこで右折すると、新大橋通りの市場橋交差点に至る波除通りとなる。 |
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築地場外市場 築地東通りを歩く
晴海通りから築地東通りに入り、歩くが、アメ横と違い道幅が狭いが、行く人と来る人とが交差して混雑しているのは同じである。時折荷物を運搬する市場関係者の自転車や台車が通るものの全く動けないが、怒声が聞こえることはない。 |
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築地場外市場 築地東通りを歩く
アメ横はマグロとカニだけで、値引きのだみ声が風物詩となっている。築地は色々な正月のおせちや、肉なども売られており、マグロとカニを探すのが一苦労で、値引きの声もかからない静かな買い物風景である。 |
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築地場外市場 築地東通りを歩く
アメ横はだみ声の売り手と買い手のやり取りが名物のため、生きがいい男の売り手がほとんどである。築地は若い女性店員でも全く問題ない。 |
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築地場外市場 築地東通り 突き当りを右折、波除通りへ |
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築地場外市場 波除通りを歩く
玉子焼き、伊達巻きの店が隣り合わせである。右は有名な大定で大混雑であるが、左の築地入船は閑散としている。そのせいか、築地入船には「玉子焼も、伊達巻も、待たずに買える」とのビラが張られている。 |
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築地場外市場 築地中通りに入る |
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築地場外市場 築地中通りを歩く
東通りと同じような風景で、大混雑である。 |
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築地場外市場 築地中通りを歩く |
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築地場外市場 築地中通りを歩く |
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築地場外市場 築地中通り 浜藤本店角で左折、築地横丁へ |
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築地場外市場 築地横丁を歩く
「横丁」なので、道幅はさらに狭く、買い物をする人もいるのでほとんど進まない。家族連れでもたつく子供を叱る親も見られる。 |
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築地場外市場 築地西通りに入る |
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築地場外市場 築地西通りを歩く |
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築地場外市場 築地西通り 突き当りを右折、波除通りへ |
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築地場外市場 波除通りを歩く |
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築地場外市場 波除通り 市場橋交差点で左折、新大橋通りへ
斜め左には国立がん研究センターが聳え立つ。 |
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都営 大江戸線 築地市場駅 |