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谷中霊園(さくら通り〜徳川慶喜墓)〜谷中霊園入口交差点

【関連サイト】   谷中ぎんざから谷中霊園、上野寛永寺、入谷朝顔市散策H260708(谷中天王寺〜谷中霊園〜上野桜木交差点)
本郷、谷根千、上野の文豪、文化人の足跡巡りH230121(谷中霊園(天王寺五重塔跡〜さくら通り〜徳川慶喜墓所))

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谷中霊園 さくら通りを南下 谷中霊園 さくら通りを南下 

さくら通り沿いには川上音二郎、毒婦お伝、徳川慶喜などの墓所や慰霊碑などが並ぶ。
谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 

さくら通りが谷中霊園の南端になる公衆うトイレの手前にある。

嘉永三年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治九年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金二百両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同十二年、三十歳で死刑に処せられる。毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。
谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 
谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓所への案内板 

さくら通りが終わり、公衆トイレの先の広場に案内板があるが、以前はこのようなものがあったかどうか、記憶にない。
谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 

ポイントごとに親切な案内板があり、分かりやすい。少なくともこれほど親切な案内はなかった。
谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 

徳川慶喜の墓所の手前にあり、文久2年(1862年)、勅使として将軍徳川家茂に勅諭を伝達した帰りに護衛の薩摩藩士により生麦事件が起こった。
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 

 幕末・明治維新期の公卿で、大原重尹の五男として享和元年(一八〇一)一〇月一六日京都に生まれた。天保二年(一八三一)従三位近衛権中将。天保九年(一八三八)兄重成の死去により大原家六代の当主となった。嘉永六年(一八五三)ペリー来航以来攘夷論を主張し、安政五年(一八五八)日米修好通商条約の勅許に反対して、水戸藩前藩主徳川斉昭の許に赴こうと密かに出京したが失敗した。文久二年(一八六二)左衛門督に任ぜられて、勅使として江戸に下り、辰の口伝奏屋敷から江戸城に臨み、将軍家茂に幕政を改革し攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達した。これによって一檮慶喜の将軍後見職、松平慶永(春岳)の政事総裁職就任が実現した。王政復古派の公卿の一人として活躍し、慶応三年(一八六七)十二月九日の夜小御所で開かれた御前会議(小御所会議)では山内豊信(容堂)、松平慶永ら公議政体派と論争し、この会議で徳川慶喜の辞官(内大臣の辞退)、納地(所領の返上)が決定した。
 維新後に刑法官知事、議定、集議院長官等に任ぜられたが、明治三年(一八七〇)官を退き、麝香間祗候(非職となった重臣に与えられた称号)を命ぜられた。明治六年家督を重美に譲り、同年十一月麝香間祗候会議の発足にあたり、その発起人のひとりとなった。明治十二年(一八七九)四月一日七十九歳で死去した。贈正二位。墓域左手に閑院宮載仁親王の篆額による勅撰神道碑がある。
谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 

塀の中に墓所がある。現在地は下線中央の赤印で、入口は右上角近くである。一見右回りが近いように見えるが、実際には他の墓が並んで大回りしなければならない。左回りのほうが近い。
 谷中霊園 徳川慶喜墓所を囲う塀沿いに歩く 谷中霊園 徳川慶喜墓所を囲う塀沿いに歩く 
 谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 
 谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 
 谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 

 徳川慶喜(一八三七〜一九一三)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(一八六六)、第一五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応四年(一八六八)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治三一年(一八九八)には大政奉還以来三〇年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治三五年(一九〇二)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正二年(一九一三)一一月二二日に七七歳で没しました。
 お墓は、間口三・六m、奥行き四・九mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径一・七m、高さ〇・七二mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
 谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 
谷中霊園入口交差点で右折、団子坂通りへ 谷中霊園入口交差点で右折、団子坂通りへ 

左に直進すると上野桜木交差点で言問通りを渡り、上野公園に向かう。右には急角度で曲がる。
団子坂通り 谷中霊園入口交差点 界隈案内図 団子坂通り 谷中霊園入口交差点 界隈案内図 
団子坂通り 谷中霊園入口交差点 東西めぐりんバス停 #9 谷中霊園入口 団子坂通り 谷中霊園入口交差点 東西めぐりんバス停 #9 谷中霊園入口 
団子坂通り 谷中霊園入口交差点 界隈案内図 団子坂通り 谷中霊園入口交差点 界隈案内図 



 
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