|
二本榎通りを北上 高輪警察署前交差点 |
|
二本榎通り 黄梅院(高輪銭洗不動) |
|
二本榎通り 黄梅院(高輪銭洗不動)
黄梅院(おうばいいん)は曹洞宗寺院で宝雲山と号し、西方24番札所。
高輪銭洗不動と呼ばれる不動明王が祀られ、銭洗いのパワースポットとも言われている。 |
|
二本榎通り 黄梅院(高輪銭洗不動) |
|
二本榎通り 黄梅院(高輪銭洗不動)
右端に用意された籠にお金を入れ、宝珠から湧き出る浄水で銭を洗う。洗った銭は仕舞っておくのではなく、使うことによりそれが戻ってきて回ることにより福が得られる。 |
|
二本榎通り 黄梅院(高輪銭洗不動) |
|
二本榎通り 黄梅院(高輪銭洗不動) 高輪銭洗不動略縁起 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓)
山門をくぐると民家の先に仁王門がある。池上本門寺の末寺であるが、歴代住職のうち3人が池上本門寺の貫首となる格式ある寺である。 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 二本榎の碑 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 二本榎の碑 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 二本榎の碑
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人の良き目標になっていたそうです。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名が変わりましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっています。 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 仁王門
山門から民家が建ち並ぶ奥に唐突に大きな仁王門があるが、その裏も大きな駐車場になっており、その奥に本堂がある。
「歴代住職のうち3人が池上本門寺の貫首となる格式ある寺である。」との案内にそぐわない寂れた印象を受ける。 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 本堂
本堂左手に英一蝶の墓があるが、説明板がないと分からない。 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 英一蝶墓 |
|
二本榎通り 承教寺(英一蝶墓) 英一蝶墓
江戸中期の絵師、英派の始祖、本名は多賀信春、潮潮のち一蝶、北窓翁などと号した。承応元年(一六五二)大坂(京都ともいう)に生まれ、一五歳(一説に八歳)のとき、伊勢亀山藩侍医となった父多賀白庵に従って江戸に移った。絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。
元禄一一年(一六九八)「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして、三宅島に配流となったが、在島一二年ののち大赦により江戸に戻った。赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。
軽妙洒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保二年(一七一七)には風俗画廃業を宣言している。同九年一月一三日、七三歳で没した。 |
|
二本榎通り 東海大学 高輪キャンパス |
|
二本榎通り 東海大学 高輪キャンパス
東海大学は学部学生数で10位の29千人である。1位は言うまでもなく日大の68千人で、以下早稲田、近大と続く。
東海大学は日本各地にキャンパスがあり、航空宇宙学科や、海洋学部、エフエム東京の前身である民放FM局のFM東海を開局させるなど活躍は多方面に渡る。 |
|
二本榎通り 高輪二丁目交差点
交差点角には虎屋菓子店があるが、赤坂に本店がある虎屋とは無関係である。同店は現在休業中で、平成23年に暖簾を畳んだ、という情報もある。 |
|
二本榎通り 高輪二丁目交差点 界隈案内図
中央の赤マークが現在地の高輪二丁目交差点で、左が北の案内図である。上の太い白線は第一京浜、下の太い白線は桜田通りである。 |
|
二本榎通り 都営高輪一丁目アパートで左折、赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)へ
旧高松宮邸(高輪皇族邸)の先にある都営高輪一丁目アパートの奥にある。摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑がなければ見落とすし、自刃跡地も一番奥なので分り難い。都営高輪一丁目アパートの奥に塀で囲われた一画があり、そこが大石良雄等自刃ノ跡である。
この地については、細川藩中屋敷とする資料もある。「大石良雄外十六人忠烈の跡」碑によれば、下屋敷とあり、ここでは後者を採った。 |
|
二本榎通り 赤穂義士 大石良雄等自刃ノ跡(細川家 下屋敷跡)
大石良雄等自刃ノ跡には鍵の掛かった門があり、立ち入ることはできない。
大石良雄外十六人忠烈の跡
この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(一七〇一)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕龍と予備として五挺の駕龍を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
元禄十六年(一七〇三)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽とお御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大番院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介は安場一平の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。 |