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横浜中華街 北門通りを東進
論理的にはおかしいが、中華街の地形のせいで、北門通りを南下する、とは書けない。厳密には東南に進むである。 |
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横浜中華街 北門通りを東進
北門通り沿いには、中国風の獅子が描かれた春節燈花が飾られている。 |
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横浜中華街 北門通り 善隣門前広場
善隣門前広場で右折すると西門通りとなり、延平門(西門)に出る。左には加賀町警察署がある。
広場を過ぎてそのまま進み、長安道と名前も変わる。 |
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横浜中華街 長安道を南下
西遊記は中華街大通りにもあったが、派手な看板で有名である。中華街では、肉まんは500円を切るぐらいが相場で、90円は格段に安いが、大きさ、味ともに値段相当である。 |
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横浜中華街 長安道を南下 |
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横浜中華街 長安道 横浜中華学院
運動場が関帝廟と隣接し、春節の獅子舞などが行われる。 |
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横浜中華街 長安道 重慶飯店別館
四川料理の重慶飯店別館の角を曲がると地久門があり、関帝廟通りとなる。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 地久門
左は重慶飯店別館である。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 関帝廟
関帝廟通りには、「慶祝 春節」の幟が飾られ、やっと春節(正月)の雰囲気が出てきた。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 関帝廟 |
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横浜中華街 関帝廟通り 関帝廟
関聖帝君の略歴
横浜関帝廟の主神は関聖帝君である。関聖帝君は三国志で有名な武将関羽(宇雲長)を神格化したものである。
関羽は西暦百六十年旧暦六月二十四日河東郡解良県常平村(現在の山西省解県)に生まれ幼児から祖父石盤公の薫陶で「周経と春秋」を学び成人後も両書を片時も手離す事なく愛読していたと云う。関羽は十八才の時、横暴な豪族を切りすてて遂県に亡命し、やがて劉備と張飛に出会い意気投合した。
三人は例え違った年月に生まれても、同じ日に死を望む義兄弟の契りを桃園で結び劉備を長兄に張飛を弟として国家の安定に努力する志を誓い合い、後漢王朝の自滅から蜀帝国の建国を画策し緩流王朝の血筋を引いた劉備を蜀帝国の皇帝として擁立しその基礎固めを行った。西暦二百十九年曹操と孫権の連合軍に敗れ処刑された。享年五十八才。 没後、蜀帝国は関羽の功績と精忠に感謝して廟を建立したのが関帝廟の始まりであり以後の晋、唐、明、清の各朝廷も関羽の精忠、守義に感動し帝位の諡を授け護国の神として祭った。
商売の神様としての由来
関羽は、武将として兵姑に精通し記帳にもたけて昔の中国社会で使われていた簿記法(大福帳)を発明した。関羽の誠を尽くし約束事を守る精神が商人にとって最も大事であることから商売の神様として祭られることになった。
尚、初代関帝廟は一八七三年(明治六年)に建立され、一九二三年(大正−二年)関東大震災で、第二代は、一九四五年(昭和二十年)戦災で、第三代は、一九八六年(昭和六十一年)不審火でともに焼失された。現関帝廟は第四代で一九九十年八月十四日落慶至現在。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 関帝廟
日本人は関帝廟や、媽祖廟は観光の対象としてしか考えていないが、中国人には信仰の対象である。そのため、関帝廟の中に入るためには左の案内所で中国式の線香や、独特の紙銭を買い、中で参拝しなければならない。一定の決まり事があり、参拝料替わりに千円払えばよい、と言うものではない。
7年前は中国人に中国語を習っていた妻が内部風景を撮影してくれた。 |
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横浜中華街 関帝廟通りを東進 |
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横浜中華街 関帝廟通り 市場通り門
中華街大通りとを結ぶ市場通りの入口である。
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横浜中華街 関帝廟通り 山下町公園
関帝廟通りの入口には会芳亭と言う東屋があり、一見小公園に見えるが、中に入るとその大きさに驚かされる。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 山下町公園
後方に平成18年3月17日に開廟した媽祖廟の裏門が見える。但し、常時閉鎖されている。
中華街の獅子舞などの音曲の練習場でもある山下町公園に隣接し、元々マンション用地だったが、騒音公害の発生や、南門周辺の発展阻害を恐れた中華街が買い取り、媽祖廟とした。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 山下町公園
媽祖廟の裏門前からの風景で、広場の端に樹が立っているだけで、獅子舞などの音曲の練習場として使われるのもよくわかる。 |
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横浜中華街 関帝廟通り 天長門で左折、南門シルクロードへ |