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清澄通り 本所二之橋南交差点
すぐ先の高架は首都高7号小松川線で、高架の下は竪川で、橋が二之橋である。 |
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清澄通り 竪川に架かる二之橋
東京は南北を基軸としており、地図も北が上である。その視点から言うと南北が「縦=竪」、東西が「横」である。
しかし、東西に流れる川が竪川で、南北に流れる川が大横川だったり、横川である。
これは、日本書紀の成務天皇紀にある 「東西を以って日の縦となし」に 由来する、との説がある。 |
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清澄通り 竪川に架かる二之橋
二之橋は、二ツ目通りの由来となった。 |
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清澄通り 竪川に架かる二之橋
二之橋
万治二年(一六五九)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。その二つ目の橋で、長さ十間(十八メートル)、幅三間(五.四メートル)ほどありました。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から船で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は江戸を描く場面に欠かせない場所となっています。
現在の橋は平成十年(一九九八)に架橋されたものです。 |
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清澄通り 竪川に架かる二之橋
鬼平情景 軍鶏なべ屋「五鉄」
小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所ニツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の
場所は、「二つ目橋の角地で南側は竪川」とあるように、この辺りだと推定されます。
鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついてぃました。
その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。 |
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清澄通り 二之橋北詰交差点で左折、馬車通りへ |
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清澄通り 二之橋北詰交差点で左折、馬車通りへ
以前はこのような標識はなかった。いつ立てられたのかは不明で、馬車通りと言う名も初めてである。 |
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馬車通り 最初の信号で右折、両国公園へ
右が両国公園で、左が両国小学校である。 |
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両国公園
右奥に勝海舟生誕の地の碑がある。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地の碑
公園の東南角に勝海舟生誕の地の碑がある。
勝海舟は幼名を麟太郎と言い、文政六年(一八二三)二月一三日にこの地男谷精一郎邸内で生まれた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六〇)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡来した。
慶応四年(一八六八)三月一三日、高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治三十二年(一八九九)一月二十一日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。 |
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両国公園 勝海舟生誕の地の碑
勝海舟は、文政六年(一八二三)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅二階(現亀沢ニ丁目三番)や代官山口鉄五郎の貨家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。(以下 略) |
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両国公園 |
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両国公園を出て、両国小学校北沿いに歩く
左の建物は両国小学校である。 |
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両国小学校 芥川龍之介 文学碑(杜子春)
両国小学校正門脇にある碑で、ここで左折、プール沿いに南下する。 |
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両国小学校 芥川龍之介 文学碑(杜子春)
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだで場所で、「大道寺伸輔の
半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(一九〇五)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。
この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。 |
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両国小学校 西沿いに南下、両国玩具株式会社脇で右折
左は両国小学校のプールの壁が続く。入ってすぐ右に、旧吉良邸の本所松阪町公園の白壁が見える。 |
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本所吉良邸跡(本所松阪町公園)
本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目(現、両国二、三丁目)のうち約八、四〇〇平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。
昭和九年三月地元町会の有志が、世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。
周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷杜などの遺蹟があリ当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。 |
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本所吉良邸跡(本所松阪町公園) 吉良上野介義央公座像
経緯が書かれた銅版が像の後ろにあるが、写真を撮ったり読むのは難しい。 |
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本所吉良邸跡(本所松阪町公園) 吉良上野介義央公座像建立の経緯
平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。
岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山
隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。
愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、一六九〇年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿、形についてはこれをモデルにそのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。
吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。
据え付けた台座は御影石を使用する。
本像制作に当たって、両国三丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十二年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。
また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現 西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。
平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。 |
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本所吉良邸跡(本所松阪町公園)
神号は松坂稲荷大明神である。
吉良邸は本所松坂町公園となっているが、白壁に囲まれた小さな神社である。
「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、その水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷宮され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当初に遷座されました。 |
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本所吉良邸跡(本所松阪町公園)
忠臣蔵 吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約八四〇〇平方メートル)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(一七〇一)三月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所ニツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。 |
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本所吉良邸跡前の道を西進 |
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両国 回向院 裏門 |
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両国 回向院 史跡記念墓地
通常の墓地の手前の一角に鼠小僧次郎吉の墓や海難供養碑群などの史跡記念墓地がある。
写真奥には鼠小僧次郎吉の墓が見える。 |
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両国 回向院 史跡記念墓地 |
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両国 回向院 相撲関係石碑群<力塚>
隅田区と相撲の関わりは、明和五年(一七六八)九月の回向院における初めての興業にさかのぼります。以後、畿つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保四年(一八三三)一〇月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
力塚は、昭和一一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時この場所に玉垣を巡らせ、大正五年(一九一六)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。 |
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両国 回向院 |
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回向院前 両国二丁目交差点で京葉道路(国道14号)を渡り、国技館通りへ |