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墨堤通り 隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 入口
墨堤通りからの入口である。
現在の日本庭園は、隅田公園が整備される以前にこの地にあった水戸徳川邸の遺構を活用しています。 ここには江戸時代、水戸藩の下屋敷があり、主に蔵屋敷として使われていました.明治維新後は一時上げ地となりましたが、その後下賜され、水戸徳川家当主が関東大震災で家が全壊するまで代々ここに住みました。当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在り日の姿が伺えます,
関東大震災以後、隅田公園の区域に取り込まれ、邸内の池(当路は汐入の池)等の遺構を活用し、日本庭園へと形を変えて現在に伝えられています。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) ソメイヨシノ(染井吉野)
江戸時代の末期に江戸染井村(現在の豊島区)の植木屋から「吉野桜」として売り出された品種。
樹齢とともに下枝が垂れ気味になる。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 明治天皇行幸所碑
江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤は、明治時代になってもその魅力を増していきました。
明治時代になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移しました。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していましたが、昭治維新の混乱期や東京遷都で中断していました。
1875年(明治8年)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選びました。 その際に詠んだ歌がここに残されています。いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌です。 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸) 満開の桜並木 |
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隅田公園 牛嶋神社
牛嶋神社は隅田公園(旧水戸藩下屋敷 小梅邸)の北の外れにあり、その先には言問橋がある。 |
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隅田公園 牛嶋神社 枝垂れ桜 |
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隅田公園 牛嶋神社 東参道の先に見える東京スカイツリー |
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隅田公園 牛嶋神社 社殿前の三輪鳥居
明神鳥居の両脇に脇鳥居が付いており、三輪鳥居と呼ばれる。
牛嶋神社は、貞観二年(八六〇年)に須佐之男命(すさのおのみこと)が、郷土守護神としてまつられたのにはじまり、その後、天之穂日命(あめのほひのみこと)、次いで清和天皇の第七皇子の貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)を合わせておまつりしております。 治承四年(一一八〇年)、源頼朝の大軍の豪雨中の参拝とか、天文七年(一五三八年)に後奈良院より「牛の御前社」という勅号を賜ったことなど、古来当社にかかわる伝説・縁起は数多くありますが、江戸時代初期に、境内に撫牛(なでうし)の石像がまつられて信仰をあつめ、十二年に一度の丑の年には、焼物の「牛のお守り」が作られるようになりました。 この「牛のお守り」は、それぞれの時代の人達の身近にあってその人達をお守りし、十二年毎に形を変えて敬愛され続けてきました。 |
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隅田公園 牛嶋神社脇の枝垂れ桜 |
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隅田公園 牛嶋神社脇から言問通りに出て左折 |