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神田川に架かる駒塚橋を渡る
駒塚橋を渡った先に胸突坂があり、その右手に関口芭蕉庵がある。 |
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神田川に架かる駒塚橋 町名由来 旧 関口町
正保(1644〜48)のころまで関口村といっていた。
土地の人の伝えに、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったので村名としたという。
また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので、関口の名が起こったという。神田川上水は、天正18年(1590)ころの開設と伝えられるので、それ以後に関口村の名称が起ったのではないかといわれる。
天和(1681〜84)以後、町屋が開かれ、享保5年(1720)ころには町並地となり、武家屋敷もおかれた。
明治5年、目白台の旧武家屋敷地、付近の寺地を合併して関口町となった。
町が開かれるに連れて飛地が出来、数ヶ町に分かれた。 |
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神田川に架かる駒塚橋を渡る |
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神田川に架かる駒塚橋から見た椿山荘 |
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胸突坂を上る
早稲田大学と日本女子大とを結ぶ急坂である。胸突坂を上った所には多くの見るべきものがある。坂を上り始めてすぐに松尾芭蕉の関口芭蕉庵があり、細川藩の文書を集めた永青文庫、早稲田などの学生を集めた和敬塾、講談社 野間記念館、カテドラル聖マリア大聖堂、椿山荘と続く。 |
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胸突坂を上る
胸突坂
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。 |
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胸突坂 関口芭蕉庵
江戸初期、神田上水の改修工事に携わっていた松尾芭蕉が住んだと伝わる地。池の周りに草木が生い茂る敷地内には、戦後復元された「芭蕉庵」、芭蕉の句碑、芭蕉の真筆を埋めた「さみだれ塚」などが点在する。 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 芭蕉庵 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 芭蕉庵 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 芭蕉句碑 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 芭蕉句碑
ふる池や
蛙飛こむ
水のおと
芭蕉翁二百八十年祭に
これを建つ。
文字は真筆。 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 芭蕉句碑 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 |
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胸突坂 関口芭蕉庵
左に進むと突き当りになるので右折する。 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 正門 |
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胸突坂 関口芭蕉庵 案内図 |
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胸突坂を上る
胸突坂を上り切った所に永青文庫がある。 |
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永青文庫
この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が収集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。
昭和47年に登録博物館となり一般に展示公開されている。 |
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永青文庫 |
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永青文庫 |
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和敬塾
早稲田大学出身の前川製作所の創設者前川喜作氏が、男子学生寮として昭和32年に開設した。塾には早稲田だけではなく、慶応などの学生もいる。
目白通りの目白台三丁目交差点の先に和敬塾の正門がある。 |
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突き当りで右折、目白通りへ
左折して目白台三丁目交差点の先に目白台運動公園があるが、その西側は旧田中角栄邸の遺産相続の物納分で、全体の1/5に相当する。
田中真紀子邸(旧田中角栄邸)は日本女子大の真向かいにあり、今はこの門の左は運動公園になっているが、かつてはテレビでおなじみの田中御殿の門が併設されていた。 |