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桜並木の御殿坂 月見寺(本行寺)
夕やけだんだんから更に東進すると桜並木の御殿坂となる。 |
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桜並木の御殿坂 月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(一五二六)江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(一七〇九)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日恒上人(俳号一瓢)は多くの俳人と交遊があり、小林一茶がしばしば当寺を訪れ、「青い田の露をさかなやひとり酒」などの句を詠んでいる。 |
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桜並木の御殿坂 月見寺(本行寺) |
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桜並木の御殿坂
西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。
当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。
天保九年(一八三八)刊の『妙めを奇談』は、寛永(一六二四〜四四)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。 |
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御殿坂 JR 日暮里駅 |
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御殿坂 下御隠殿橋
善性寺、羽二重団子近くの尾久橋通りの東日暮里五丁目交差点に御隠殿橋の案内がある。
御隠殿は、宝暦四年(一七五四)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。御隠殿橋は、その正門前の音無川にかけられた橋であった。
橋の長さ約二.七メートル、幅約三.九メートル、石材でつくられた立派な橋であったが、昭和八年音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の下に残っている。
往時、このあたりは水鶏の名所で、やや下流には水鶏橋がかかっていた。 |
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JR 日暮里駅(北改札口)
日暮里・舎人ライナーの開通にあわせ、日暮里駅は大改造され、立派な駅舎となった。 |
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JR 日暮里駅 東口
駅舎の中を通り、東口の広場に出る。 |
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JR 日暮里駅 東口前広場
広場を出て尾久橋通りに出てもよいが、善性寺と羽二重団子に行くため、広場から直接行く道を選ぶ。 |
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日暮里駅 東口前広場からガスト横を南下 |
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善性寺の塀沿いを南下 |
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善性寺と羽二重団子 |
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善性寺
善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(一四八七)の開創と伝える。寛文四年(一六六四)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(一七〇四〜一七一一)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂下には文政二年(一八一九)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規 |
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羽二重団子
芋坂も団子も
月のゆかりかな 子規
江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮らしの里は、音無川のせせらぎと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました。
文政二年、小店の初代庄五郎がここ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。
この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまま菓名となっていつしか商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を受け継いでおります。 |
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根岸子規会 案内 |
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根岸子規会 案内
ようこそ根岸へ
正岡子規は明治二十五年に根岸に転居し、明治三十五年九月十九日に亡くなるまで、この根岸の地で彼の生涯の文学活動の大半を行いました。また、根岸に住むことを誇りに思い、暇さえあれば根岸周辺を散歩して、俳句を詠みます。歩くことができなくなれば人力車で出かけ、それもかなわなくなれば六畳の病床に聞こえてくる町の音に耳を澄まし、根岸の光景を思い出しながら俳句を詠みます。
私たち根岸子規会は、地域の方々の協力のもと、子規の俳句を根岸の街角に貼りました。また今年は今まで顧みられること景観の再構成を試み、「根岸前田邸近傍図」を作製しました。子規の住んでいた上根岸は、言問通り・尾竹橋通り・尾久橋通りの開通、鉄道用地の拡幅、前田邸・諏訪邸の開放により大きく変化しました。しかし、切れ切れになりながらも鶯横丁・狸横丁・根岸中道は残っています。街角の「近傍図」を見ながら、子規に会おうと夏目漱石・高浜虚子・長塚節等が歩いた道を辿ってみませんか。 |
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根岸子規会 案内
子規庵周辺の旧図であるが、現在と全く状況が異なっており、おこがどこだが検討もつかない。 |
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東日暮里五丁目交差点脇の小路から尾久橋通りへ |