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汐入中央通り 汐入公園沿いに南下 |
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汐入中央通り 汐入公園沿いに南下 |
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汐入中央通り 東京都立産業技術高等専門学校 科学技術展示館
元は航空高専と呼ばれた全国で唯一の航空工学科がある高専で、現在は産業技術高等専門学校となった。飛行機や人工衛星などの研究開発、設計製作が行なわれており、ロボットコンテストや鳥人間コンテストなどでも優秀な成績を収めている。校内にある科学技術展示館には国内外の資料価値の高い航空機が所狭しと展示されており、4月のヘリコプターの日や5月の世界電気通信の日、6月の電波の日などの記念日の10〜15時に一般公開されている。 |
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汐入中央通り 東京都立産業技術高等専門学校 科学技術展示館
汐入中央通りの突き当たり手前で係員の指示により左折、立寄ったが、指示がなければ見落とすところだった。 |
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汐入中央通り 突き当りで右折 |
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突き当りで左折、南下
突き当りはJR貨物の隅田川駅である。 |
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JR貨物の隅田川駅沿いに南下 |
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橋場橋通り入口交差点で右折、西進 |
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JR貨物の隅田川駅前を進む |
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南千住二丁目交差点で吉野通りを渡る
吉野通りを渡り、すこし右に進んで左折、住宅街に入リ、常盤線沿いに西進する。 |
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南千住二丁目交差点 吉野通りの右手にある南千住駅前歩道橋
常磐線の跨線橋で、吉野通りは手前から地下道で常磐線の下を潜り抜ける。歩道橋を渡ると右に日比谷線南千住駅が、左には小塚原処刑場跡の延命寺、隣接して小塚原回向院がある。 |
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浄閑寺(投込寺)
明暦元年(1655)開基の浄土宗の寺で、安政2年(1855)の大地震の際に亡くなったたくさんの新吉原の遊女が、投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれる。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、境内には新吉原総霊塔がある。 |
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浄閑寺(投込寺)
浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。 |
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浄閑寺(投込寺) 本堂
本堂の裏、常磐線との間の狭い敷地に有名な新吉原総霊塔や永井荷風文学碑などがある。イベントで多くの人が見物に行くため、割愛した。
浄閑寺を出ると日光街道で、左折してすぐ先に大関横丁交差点がある。 |
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日光街道(国道4号) 大関横丁交差点で右折、明治通りへ
大関横町
大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住一丁目一〜八番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川一丁目三十六〜三十八番付近)があった。
明治通りに拡張される前の道幅は、約二間(約四メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。 |
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日光街道(国道4号) 大関横丁交差点で右折、明治通りへ
明治通りに入って最初の交差点で左折、住宅街を西進する。 |
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住宅街を西進 |
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第三日暮里小前交差点を進む |
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日暮里中央通り交差点で尾竹橋通りを渡り、日暮里中央通りへ |
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日暮里中央通り 日暮里繊維街を西進
日暮里駅前を起点に東日暮里3丁目から6丁目まで4町会にまたがる問屋街で、日暮里中央通りを中心に両側約1kmにわたり、服地、繊維製品、服飾関連の小物や付属品の店舗が約90軒並ぶ。国内有数の生地の集積地として、アパレルメーカーから趣味で裁縫をする個人まで、関東一円はもとより全国各地から多くの人が訪れる。毎年11月には国際的なファッションショーが開催されることもあり、アジア・欧米各国からも多くの観光客が訪れる今注目のエリアだ。 |
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日暮里中央通り 日暮里繊維街を西進 |
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日暮里中央通り 日暮里繊維街を西進 |
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日暮里中央通り 日暮里繊維街を西進 |
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日暮里中央通り 日暮里駅前交差点で尾久橋通りを渡る |
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日暮里中央通り 日暮里駅前で右折 |
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日暮里駅前 日暮里・舎人ライナーの日暮里駅ホーム下を進む |
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日暮里駅前 ゴール風景
静岡や新潟、福島などの物産店のテントが並び、歩き終えた参加者が買い物をしたり、土産物を飲食していた。 |