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永田町駅〜隼町交差点〜半蔵門駅

【関連サイト】   半蔵門線H2006

日枝神社 山王祭 神幸祭H240608(隼町交差点〜半蔵門駅通り〜麹町1丁目交差点)

日枝神社 山王祭 神幸祭H240608(大妻通り〜半蔵門交差点〜国立劇場)


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青山通り(国道246号) 平河町森タワー 青山通り(国道246号) 平河町森タワー 
青山通り(国道246号) 隼町交差点で左折、半蔵門駅通りへ 青山通り(国道246号) 隼町交差点で左折、半蔵門駅通りへ 

隼町交差点の青山通りの反対側に、日本をめちゃくちゃにした(それに気づかない鈍感さは立派だが)民主党本部がある。

日枝神社の神幸祭は、国会議事堂の裏を進んで隼町交差点を渡り、半蔵門駅通りを北上する。
青山通り(国道246号) 隼町交差点で左折、半蔵門駅通りへ 青山通り(国道246号) 隼町交差点で左折、半蔵門駅通りへ 

隼町交差点の左手の白い角ばったビルは最高裁判所で、青山通りを渡った所には民主党本部がある。
交差点を左折すると国立劇場との案内版があるが、正面入り口は三宅坂に出て左折、半蔵門手前にある。
青山通り(国道246号) 隼町交差点で左折、半蔵門駅通りへ 青山通り(国道246号) 隼町交差点で左折、半蔵門駅通りへ 

片道1車線の道で、左手の最高裁や国立劇場側は隼町、左側は平河町で、半蔵門の西側の道を歩いて北上する。
半蔵門駅通りを北上 半蔵門駅通りを北上 
半蔵門駅通り 定食屋角で左折すると平河天満宮へ 半蔵門駅通り 定食屋角で左折すると平河天満宮へ 

信号もなく、案内もないので分かりにくいが、定食屋の角を曲がると突き当りに平河天満宮が見える。
半蔵門駅通り沿いの平河天満宮 半蔵門駅通り沿いの平河天満宮 

平河天満宮 御由緒
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依リ、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり斯年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願等も多い。
半蔵門駅通り 町名由来 麹町二丁目 半蔵門駅通り 町名由来 麹町二丁目 

この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小道小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向かう「国府路」があったからともいわれています。
 麹町は、麹町大通り(新宿通り)の両側に形成された町でした。明治以降、このあたりは商店街として栄えましたが、現在ではオフィスビルの立ち並ぶ都心のビジネス街へと姿を変えています。
半蔵門駅通り 麹町一丁目交差点で麹町大通り(新宿通り)を渡る 半蔵門駅通り 麹町一丁目交差点で麹町大通り(新宿通り)を渡る 

日枝神社の神幸祭はこの交差点で左折、四ツ谷駅に向かう。
半蔵門駅通り 麹町一丁目交差点 熱中症計は危険 半蔵門駅通り 麹町一丁目交差点 熱中症計は危険 

現在時刻は10:40で、熱中症計は危険、温度37.4℃、湿度39%である。

青山一丁目交差点では10:00で、熱中症計は危険、温度39.0℃、湿度33%であった。温度が少し下がり、湿度は上がったが、蒸し暑さを感じる。
半蔵門駅通り 永井坂を下る 半蔵門駅通り 永井坂を下る 

 この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。
 嘉永四年(一八五一)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本か道をはさんで、ちょうどむかいあっているかのようにみえます。
半蔵門駅通り 永井坂を下る 半蔵門駅通り 永井坂を下る 
半蔵門駅通り 町名由来 一番町 半蔵門駅通り 町名由来 一番町 

 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。
 明治になると、中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族の屋敷が並ひ、山県有朋の邸宅もありました。
 明治五年(1872)、英国大使館(当時は公使館)がこの地に移ってきます。維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過こしました。
 英国大使館の裏手には、明治三十三年(1900)、津田梅子が女性の自立をめざした英語学校・女子英学塾を創立しました。これが現在の津田塾大学の前身です。(続く)
半蔵門駅通り 町名由来 一番町 半蔵門駅通り 町名由来 一番町 

(承前)
 文化人たちにもー番町は愛されていました。小説家・劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤はこの地に生まれ、結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。「荒城の月」「花」などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎や、「からたらの花」「とんぼ」などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰もまた一番町の住人です。昭和三十二年(1957)に制定された「千代田区歌」は、佐藤春夫が作詞、山田耕作が作曲したもので、英国大使館前に区歌の碑が残されています。
 昭和十三年(1938)、かつての五番町と上二番町、元園町一丁目の一部が一緒になって、現在の一番町となりました。
 新たな文化を積極的に取り入れ、近代思想の礎を築いた町、それが一番町なのです。
東京メトロ 半蔵門線 半蔵門駅 東京メトロ 半蔵門線 半蔵門駅 



 
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