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外堀通り 神楽坂下交差点 |
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外堀通り 神楽坂下交差点
右折して早稲田通りの神楽坂を上ると、江戸時代から信仰を集めた毘沙門天で有名な善國寺がある。 |
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外堀通り 神楽坂下交差点界隈のサクラ並木
冬なので裸木であるが、春になると見事な花がつく老木である。 |
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外堀通り 東京理科大
神楽坂下交差点から外濠沿いに東京理科大を始め、法政大学の校舎が並ぶ。 |
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外堀通り 外濠沿いのサクラ並木 |
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外堀通り 市谷見附交差点で左折、靖国通りへ |
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外堀通り 市ヶ谷橋の釣り堀
市ヶ谷橋の風物詩としていつから始められたものかは知らないが、子供時代から見慣れた風景なので少なくとも半世紀は経っている。 |
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外堀通り 市谷見附交差点で左折、靖国通りへ |
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靖国通り 市ケ谷駅交差点で右折、日本テレビ通りへ
靖国通りは左折する。 |
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東京メトロ 有楽町線 市ケ谷駅
有楽町線の市ケ谷駅は外濠の下にあり、入口は南北線、新宿線との共用連絡通路を使う。 |
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日本テレビ通り 新坂を上る
市ヶ谷駅交差点から新坂を上り、麹町に向かう。坂を上り切った所が五番町交差点で、日本テレビ通りを進むと、四番町、二番町の案内板があり、番町小学校もある。 |
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日本テレビ通り 四番町
江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるため、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれました。 江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並んでいました。安政五年(一八五八)の日米修好通商条約で、幕府側の代表のひとりであった井上信濃守清直もこの町の住人でした。清直は、初代の外国奉行であり、条約締結に尽力しました。 明治時代になると、中央政庁に近く便利な場所だったために、華族や官吏の邸宅地となりました。政治家の島田三郎や、首相を務めた若槻礼次郎の邸宅もありました。 また、町内には自由民権運動の指導者であった中江兆民が主宰した仏蘭西学舎(のちに仏学塾と改称)もあり、新時代を担う若者たちの活気で満ちあふれていました。 歌人の与謝野鉄幹、昌子夫妻も、明治四十四年(一九一一)から大正四年(一九一五)にかけて、このあたりに住んでいました。鉄幹が発行した雑誌「明星」からは、北原白秋や石川啄木ら数多くの詩人、歌人が輩出しています。 明治、大正、昭和、激しく揺れ動いた時代を鋭い視点で見つめた人々が、この四番町に集まっていたといえるでしょう。 |
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日本テレビ通り 四番町 |
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東京メトロ 有楽町線 麹町駅 |
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日本テレビ通り 日本テレビ麹町ビル 南館
日本テレビは今は汐留に移ったが、以前はこの場所にあり、麹町ビル南館前でズームイン朝などが放送されていた。今は閑散としている。 |
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日本テレビ通り 二番町
日本テレビ麹町ビル南館前に設けられている。
江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるために、隣接するこの一帯に「大番組」と呼ばれる警備役の旗本達を住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいましたが、明治時代になると伯爵や子爵、官吏の邸宅が並ぶ高級住宅地となりました。 現在の二番町周辺は、明治五年(一八七二)から昭和十三年(一九三八)まで「下二番町」と呼ばれていました。いまは、幅こそ広くなったものの、通りの位置や方向は大きく変わらず、落ち着いた町並みからも往時が偲ぱれます。 明治・大正期の外交官であり、のちに首相となって政党政治を確立させた加藤高明の邸宅は、現在のベルギー大使館の地にありました。 「花物語」「徳川の夫人たち」などの大衆小説で有名な吉屋信子や、プロレタリア文学の武田麟太郎も、この町に住んでいました。 ここ二番町では日本テレビの存在も忘れることはできません。昭和二十七年(一九五二)にこの場所に開局した日本テレビは、当時、海抜一八四メートルのテレビ塔をもち、その展望台からは皇居や国会議事堂を望むことができました。 明治、大正、昭和と多くの文化人を生み出した二番町は、これからも文化の発信基地の役割を担っていくことでしょう。 |
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日本テレビ通り 二番町 |