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大江戸線は両国駅出入り口を出て右折、清澄通りを南下してJR総武線のガード下をくぐり抜ける。それだとJR両国駅界隈の見所を通らなくなるので、左折して江戸東京博物館経由で国技館などに行くこととする。 |
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江戸東京博物館
【撮影記録】
平成21年 2月 6日 快晴
10:35〜13:25 15,900歩(昼食10分)(概算 12.7km)
大江戸線 両国〜門前仲町〜汐留
営業距離 7.4km 駅数 8
大江戸線をひたすら歩くか、その土地の名所紹介も行うか迷うところである。今回の区間は馴染みの区間で、紹介はリンク対応で済ませられ、ひたすらなら、六本木、青山一丁目まで行ける。しかし、風は強いが天気が良く、名所紹介も行いつつ歩くこととし、本所、深川、築地と下町散策も兼ねることとした。 |
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江戸東京博物館 江戸東京ひろば
清澄通りから階段を上ると江戸東京ひろばに着く。ここは3階でチケット売り場があり、左の赤いエスカレーターから展示場に上がる。 |
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江戸東京博物館 江戸東京ひろば 浅草寺観音堂大棟鬼瓦
この鬼瓦は、浅草寺(台東区浅草)の本堂である観音堂を飾る鬼瓦として、享保6年(1721)から昭和4年(1929)まで大棟に使われていたもの。観音堂は明治40年(1907)、国宝の指定を受けていたが、関東大震災による修復の際、この鬼瓦は様式があわないと言う理由で屋根から取り外された。瓦の銘には、享保6年(1721)に浅草寺領である浅草諏訪町、浅草瓦町で制作されたことや、「作者平井助左衛門」と鬼瓦師らしき人物が刻まれている。浅草寺の瓦が寺領から供給されていたことを裏付ける、由来の明らかな資料として価値が高い。なお旧国宝浅草寺観音堂は昭和20年(1945)3月10日、空襲により焼失している。 |
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江戸東京博物館 江戸東京ひろば 浅草寺観音堂大棟鬼瓦 |
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江戸東京博物館 江戸東京ひろば
広場の向こうには国技館の大屋根が見える。 |
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江戸東京博物館 江戸東京ひろば |
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江戸東京博物館 江戸東京ひろば
右に国技館、左にJR両国駅が見える間の階段を下りて行く。 |
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江戸東京博物館
西にあるJR両国駅側から見た博物館で、東側が清澄通りに接しているので全体が見えにくいが、4本足で立つ犬のような構造は同じである。 |
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両国 国技館
江戸東京ひろばからの階段から下り、JR両国駅に向かう。 |
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両国 国技館
約2週間前に初場所は終わっているが、力士名が書かれた幟はまだ残っている。 |
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両国 国技館 俵星玄蕃の道場跡
槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。
上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦況に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。
蕎麦屋に姿を変えていた赤穂浪士の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃがまさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。
これは、講談や浪曲で語り維がれた物語で演歌の題材にもなっています。 |
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国技館前の「ワールドちゃんこ 朝青龍」
「ワールドちゃんこ 朝青龍」は、国技館通りを挟んで、国技館の向かい側に出来た店で、初場所終了後に開店した。 |
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両国 国技館 |
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「ワールドちゃんこ 朝青龍」
現役力士が店を開くことはできないので、朝青龍が名前を貸しただけ、という建前になっているが、やりたい放題のヒール役朝青龍なので本当の所は分からない。 |
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国技館通り 両国 国技館
国技館前で右折、国技館通りを南下する。 |
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国技館通り JR 両国駅
如何にも往時の賑わいを思わせる駅舎だが、レストランや、土産物店である。改札口は右側の西口にある。 |
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国技館通り 両国駅界隈 観光案内図
現在地は赤印で、左端中央の両国駅前である。左に隅田川があり、下の左右の線は竪川である。 |
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国技館通り JR両国駅西口風景
元大関の店ちゃんこ霧島の大きな看板が目に付く。このようなちゃんこ店が総武線と、京葉道路との間にいくつもあるが、高い店もあり、安い店もある。量が多いので注意が必要である。 |
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国技館通り 力士像と手形のモニュメント
このようなモニュメントが国技館通りの両端に並ぶ。手形には力士名が書かれているが、像には書かれておらず、誰だか分からない。手形は栃若から曙などの歴代の横綱であり、像も横綱だとは思う。 |
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国技館通り 両国二丁目交差点で左折、京葉道路へ
突き当りに回向院があり、左に隣接して旧国技館で日大講堂だった跡に建てられた両国シティコアがある。
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両国 回向院
回向院は勧進相撲発祥の地と言われ、境内には相撲関係の石碑や、鼠小僧次郎吉の墓などがある。
明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。 |
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京葉道路 旧吉良邸跡への入口
赤穂浪士の高輪泉岳寺と違い、昭和9年に松坂町公園として整備された小公園であり、場所が分かりにくい。このガソリンスタンドで右折するが、分かりにくいので、詳細は平成20年の吉良版義士祭を参照いただきたい。 |
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京葉道路 本所松坂町跡の碑
京葉道路の右側を東進し、両国シティコアの先の歩道橋の先にある。
昭和7年(1932年)に建てられた。碑文によると、関東大震災後の区画整理で由緒ある地名が消えることを惜しんだ、とある。 |
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京葉道路 旧吉良邸跡への入口
ここから、約百メートル先になまこ壁に囲まれた東京都指定史跡「吉良邸跡」があります。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂四十七士が討入ったところで、「忠臣蔵」で知られるところです。
現在、吉良邸跡は墨田区の本所松坂町公園として保存されています。昭和九年(一九三四)地元両国三丁目町会有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年三月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、昭和二十五年(一九五〇)九月に墨田区に移管されました。
毎年十二月十四日、義士討入りの日には、両国連合町会主催の「義士祭」、十二月の第二または第三土曜日・日曜日には両国三丁目松坂睦主催の「吉良祭」や地元諸問屋出店の「元禄市」が開催され、大変な賑わいを見せます。 |
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京葉道路 旧吉良邸跡への入口
この案内板は以前は無く、指示通り直進すると旧吉良邸の東端に出る。 |
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京葉道路 両国三丁目交差点
吉良邸跡の案内板はこの交差点の手前にある。 |
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京葉道路 本所警察署 関東大震災殉職者慰霊碑
右側の木立に関東大震災での殉職者慰霊碑がある。この碑に限らず横網町公園(旧陸軍被服廠跡)など、東京には関東大震災や、東京大空襲の慰霊碑が多くある。 |
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京葉道路 本所警察署 関東大震災殉職者慰霊碑 |
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京葉道路 緑一丁目交差点で右折、清澄通りへ
出発点の都営両国駅から寄り道をしなければこの交差点に数分で着く。 |
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清澄通り 二之橋北詰交差点 |
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清澄通り 竪川に架かる二之橋
二之橋は、二ツ目通りの由来となった。 |
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都営 大江戸線 森下駅 |