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晴海通り 月島第二幼小前交差点
勝どき橋東詰手前の交差点で、角に交番がある。交差点で右折、西仲橋を渡ると月島西仲通り(もんじゃ街)に至る。 |
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晴海通り 隅田川に架かる勝どき橋
勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳開橋等で、昭和十五年(一九四〇年)六月に竣功した。 勝鬨橋の特筆すべき点として、我が国最大の可動支間を有し大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置よりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。 下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。 建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師瀧尾達也及び安宅勝らである。 |
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晴海通り 勝どき橋西詰の築地市場 |
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晴海通り 勝どき橋西詰 かちどき 橋の資料館 |
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晴海通り 勝どき橋西詰 勝鬨橋の案内 |
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晴海通り 勝どき橋西詰 海軍経理学校の碑
海軍兵学校につながる軍艦操練所跡の碑は、晴海通りをさらに進み、築地市場の銀座よりの端の築地六丁目交差点手前にある。 |
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晴海通り 勝どき橋西詰 勝鬨の渡し
明治二十五年(一八九二)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。 明治三十八年(一九〇五)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋区祝捷會挙行之日建之京橋区同志會」と陰刻されています。 設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約一五〇メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が通航していました。 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。 大正十二年(一九二三)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(一九四〇)六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。 勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。 |
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晴海通り 勝どき橋西詰 勝鬨の渡し
勝鬨橋の西詰で、晴海通りの左側にこの碑がある。 |
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晴海通り 勝どき橋西交差点
左に築地市場がある。 |
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晴海通り 築地六丁目交差点 軍艦操練所跡
以前は交差点を左折し波除通りに入った所にあった。
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(一八五七)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。
万延元年(一八六〇)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(一八六四)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(一八六五)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。 |
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晴海通り 築地六丁目交差点で左折、波除通りへ |
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波除通りを南西に進む |
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波除通り 波除稲荷神社
波除稲荷神社は、約350年前、江戸開府に伴う市街整備のの築地埋め立ての際、激しい波や風によって困難を極めた工事を無事に治めたといわれる御神体か祀られている,築地という場所柄、「すし塚」、「玉子塚」、「活魚塚」、「海老塚」、「鮟鱇塚」なども祀られている。
再建された天井大獅子、お歯黒獅子でも有名である。 |
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波除通り 波除稲荷神社
波除稲荷神社の創建は万治年間(一六五八〜一六六一)と伝えられています。
築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。
波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(一八四八)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年六月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井大獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。
また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚たちが天保九年(一八三八)に奉納したものです。江戸時代、現在の築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。 |
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波除通り 波除稲荷神社 社殿 |
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波除通り 波除稲荷神社 お歯黒獅子
平成14年に雌の獅子も復活した。 |
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波除通り 波除稲荷神社 天井大獅子
大獅子は築地獅子祭として有名だったが、江戸時代末に焼失した。平成2年に再建された。 |
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波除通り 波除稲荷神社前から場外市場を進む |
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波除通り 場外市場を進む |
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波除通り 場外市場を進む
卵焼きの老舗で、観光客が何種類もの卵焼きを選んで買っていた。 |
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波除通り 場外市場を進む |
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波除通り 市場橋交差点で左折、新大橋通りへ
左向かいには国立がん研究センター中央病院がある。 |
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都営 大江戸線 築地市場駅 |