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山手通りを北上 |
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山手通り 神田川に架かる長者橋
十二社熊野神社を始め、新宿から中野坂上にかけて中野長者にまつわる話が続く。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺
神田川に架かる長者橋を過ぎ、中野坂上交差点が見える所にある。
この成願寺には、大名・蓮池鍋島家の墓所があります。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。 蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永十六年(一六三九)五萬二千六百石を与えられ分家したのに始まります。 墓域に入ると十基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が四代藩主・直桓の供養碑、三番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直桓は、寛延二年(一七四九)に麻布龍土町(港区)の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移されました。 他の八基の墓は、二代直之・八代直与・九代直紀の子供たちのものです。 また、墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があリ「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 本堂
本堂の左手に広い墓所があり、鍋島家の墓所が見つからず苦労した。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 中野長者(鈴木九郎)史蹟碑
中野長者(鈴木九郎)の一人娘(小笹)が病死したことを深く悲しみ出家、その邸宅を寺院にしたのが成願寺と言われる。
一人娘の病死については中野長者と小笹との因果譚がある。
中野長者が自分の財産を地中に埋め隠すため、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだ。このため、行きに中野長者と一緒だった人が帰りに姿が見えない、ということで「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」と言われた。後に徳川家光が京の淀川に景色が似ているとのことで、淀橋と改めた。
この悪行に小笹が結婚の前夜に蛇体に変身、十二社の池に身を投げ、この因果譚が中野長者の出家、邸宅が成願寺になった、と言われる。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 中野長者ものがたり |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 中野長者ものがたり
鈴木九郎が中野本郷に住みついたのは約六〇〇年前足利時代の初めである。
彼の先祖は古代の貴族穂積氏を元とし紀伊熊野権現の別当を代々努め、のち武家となった。義経に従い、西は赤間に
北は衣川に戦った重家・重清の兄弟が居り、更には南朝の臣に列する刀槍を重んずる一族であった。が、応仁の乱天下入り乱れて領地権力を奪い合うあさましさであった。これに愛想つきた九郎は新地開拓を志して神田川9ほとりに至り鍬を手に田園生活に入らんと志を立てた。
芒ばかりの湿地を起こして稲を植え、松のみ茂る荒地を拓いて馬数頭を養う一家のなりわいしがその貧しさはまことに目を覆わしむるものであった。
(以下略) |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 鍋島地蔵
墓所の中ほどに大きな案内板と、地蔵像が見つかったが鍋島家の墓所が分からず、東側(山手通り方向)を探す。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 鍋島家墓所への案内板
右に鍋島地蔵、墓所が左にあるとの案内板を発見する。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 鍋島家墓所 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 鍋島家墓所 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 長者閣
鍋島家墓所から出ると山門すぐ脇の長者閣に出る。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺 長者閣前にある鍋島家墓所案内
要するに境内奥にある本堂から成願寺の墓所に入ったが、山門から入ってすぐ左の墓所に入ればすぐ鍋島家墓所を見つけることができた。 |
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山手通り 鍋島家墓所 成願寺
一週間後には元日であり、正月の初詣準備がなされている。 |
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山手通り 中野坂上交差点で青梅街道を渡る
青梅通りの下を丸の内線が走り、中野坂上駅で連絡する。 |
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都営 大江戸線 中野坂上駅 |
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山手通り 中野坂上交差点
交差点左側にはハーモニータワーが、右側には中野坂上サンブライトツインビルが聳え立つ。 |
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山手通り 宮下交差点で大久保通りを渡る |
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山手通り 宮下交差点で大久保通りを渡る
宮下交差点は総武線を歩いた時に左から右手に歩き、新大久保駅に向かった。交差点を渡ってすぐ右手に氷川神社がある。 |
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山手通り 長い坂を上る |
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山手通り 氷川神社
旧中野村の総鎮守社で、長元3年(1030)、源頼信が平忠常征討の際、武蔵国一之宮 氷川神社より勧請したと伝わる。文明9年(1477)には太田道灌が豊島泰経・泰明兄弟討伐の際に戦勝を祈願し、凱旋後に社殿を造営したという。9月中旬に例大祭があり、周辺5町会の連合神輿や、壮大な打越太鼓が披露される。 |
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山手通り 東中野駅前交差点 都営 大江戸線/JR 総武線 東中野駅 |
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都営 大江戸線 東中野駅 |