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京急 本線 京急川崎駅
【撮影記録】
平成23年 4月 24日 快晴
9:30〜12:30(昼食10分) 18,500歩(概算 13.0km 地図上の距離 11.8km)
本線 京急川崎駅〜八丁畷駅〜京急鶴見駅〜生麦駅〜京急新子安駅〜神奈川駅〜横浜駅
営業距離 10.4km 駅数 11
きれいに晴れ、18度を越す天気であるが、カラッとしていて歩きやすかった。京急川崎駅から八丁畷駅までは、旧東海道川崎宿を歩き、そこからは第一京浜を歩いた。旧東海道については、別途整理したサイトを参照いただきたい。 |
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駅前商店街 銀座街
京急川崎駅から駅前商店街を南東に歩く。 |
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駅前商店街 砂子一丁目交差点で右折、旧東海道 川崎宿へ
左折すると旧東海道川崎宿を歩き、六郷の渡しに出る。 |
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旧東海道 川崎宿 砂子交差点で市役所通りを渡る |
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旧東海道 川崎宿 砂子交差点 いさご通り入口 |
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旧東海道 川崎宿 いさご通り入口 東海道と大師道
いさご通り入り口に掲げられた案内図で、地図は多摩川に架かる六郷橋で左右に分かれ、川崎大師と川崎宿に到る。 |
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旧東海道 川崎宿 いさご通り入口 東海道と大師道
東海道。江戸から京都まで、道の
りは百二十五里二十町、およそ五百二キロ。
徳川家康により特に重視され、整備が急がれた街道である。大名行列の多くがここを通り、物資が行き交い、東西の文化交流が進んだ。
東海道川崎宿は元和九(一六二三)年、他の宿より遅れて宿駅となり、今の小川町あたりから六郷橋まで、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町で構成された。江戸後期から幕末にかけて、旅籠や茶店などが一段と多くなる宿場の最盛期には、渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向かう参詣客などで大いに賑った。川崎大師は、当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていたのである。
江戸と京都を結ぶ東海道。その宿駅として、また同時に、それに続く大師道の拠点として栄えた川崎宿であった |
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旧東海道 川崎宿 いさご通りを西進 |
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旧東海道 川崎宿 小土呂橋交差点で新川通りを渡る |
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旧東海道 川崎宿 小土呂橋交差点で新川通りを渡る |
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旧東海道 川崎宿 小川町通りを西進 |
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旧東海道 川崎宿 川崎警察署東側入口交差点で市電通りを渡る
以前は日新町交番前交差点だった。 |
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旧東海道 川崎宿 川崎警察署 |
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旧東海道 川崎宿日進町町内会館「麦の郷」
川崎警察署の向かいで、少し先に八丁畷駅が見える。 |
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旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」
芭蕉の句碑と川崎宿絵図
江戸時代後期
川崎宿は全長約1。5Kmのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。そのほかに、教安寺、一行寺、宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)付近に文政13年(183O)俳人一種によって建立されたもので、そののち現在の位置に移されました。この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へ足をはやめたことでしょう。 |
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旧東海道 川崎宿 日進町町内会館「麦の郷」
日進町町内会館「麦の郷」の由来
京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。
元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ)向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。
弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。
芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。
弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。
弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、ビバース日進町1階「芭蕉ポケツトパーク」で見ることができます。 平成16年(2004年)、日進町町内会館は新しく建て替えられ、その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。 |
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旧東海道 川崎宿日進町町内会館「麦の郷」 |
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旧東海道 川崎宿 俳人 松尾芭蕉の句碑
八丁畷駅の手前にある。 |
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旧東海道 川崎宿 俳人 松尾芭蕉の句碑
麦の別れ
元禄七一六九四年五月十一日(現在の六月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓植庄へ帰る時江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
と返歌し弟子達の親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたリによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。 |
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旧東海道 川崎宿 俳人 松尾芭蕉の句碑
俳聖松尾芭蕉は、元禄七年(一六九四)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、 門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
麦の穂をたよりにつかむ 別れかな
の句にたくしました。 芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月、大阪で、
旅に病んで夢は枯野をかけめくるという辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。
それから百三十余年後の文政十三年(一八三〇)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。 |
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京急 本線 八丁畷駅
旧東海道は駅前で右折して踏切を渡って線路沿いに歩く。今回は左折して、第一京浜に向かう。 |