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深川公園を西進 |
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深川公園 周辺図
現在地は富岡八幡宮横の左中央端の赤矢印で、西進(右側)して深川不動尊に向かう。 |
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深川不動尊 旧本堂
元禄16年(1703年)に成田山新勝寺の別院として建立された。当時不動尊信仰が盛んで、成田山に行かずとも江戸で参詣したいとの町民の希望がかなった。 |
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深川不動尊 開運出世稲荷 |
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深川不動尊 寄贈石造群 勝軍地蔵尊
工藤保治翁は年齢十五歳にして始めて成田山不動明王を信仰し終始其の加護霊験を得て光明安心の生活を営みつつあり。時恰も長期聖戦に際会し特信深き当堂境内に国威宣揚皇軍戦捷出征兵士武運長久を祈願する為の勝軍地蔵尊を建立し詣信ずる者をして皆悉く厄を除き運を開き永く福禄を享けしめんと番云 |
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深川不動尊 寄贈石造群 勝軍地蔵尊 |
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深川不動尊 寄贈石造群 トンボ鉛筆寄贈の不動 |
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深川不動尊 寄贈石造群 百度石 |
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深川不動尊 開運出世稲荷 |
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深川不動尊 旧本堂、内仏殿、本堂
手前が昨年(平成23年)までの本堂、その後ろが内仏殿、左が現在の本堂である。本堂の外壁は梵字で覆われている。 |
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深川不動尊 開運出世稲荷 |
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深川不動尊 開運出世稲荷
ご本尊吒 枳尼天(深川不動尊は、口篇に毛の横棒3本が2本の「吒」枳尼天とするが、表示できない。 荼枳尼天 だきにてん)尊は、大本山成田山新勝寺の境内に御座す「成田山出世稲荷」のご分霊を勧請奉祀いたしました。社殿は檜皮葺総檜造り向拝及び各部分には見事なまでの彫刻を施した日本建築の粋凝らし逸作で、社殿の周囲には開運招福を願うご信徒の奉献によるのぼり幡がはためき、境内は活況を呈しております。例大祭は毎年2月15日に、開創紀念大祭は毎年9月15日に執り行われ、群参ご信徒により一層の賑わいを見せます。
参道には吒 枳尼天(荼枳尼天)の赤い幟が立ち並ぶ。 |
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深川不動尊 旧本堂 |
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深川不動尊前で左折、深川公園へ |
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深川公園 深川不動尊案内
由来
深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878)当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。
元禄(1688~1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。 |
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深川公園 富岡八幡宮 別当永代寺跡
深川公園は深川不動の西側に隣接する公園で、往時は深川不動も含めて富岡八幡宮の境内だったことがうかがわれる。
富岡八幡宮の別当寺であった永代寺は、明治の神仏分離令により廃寺となった。その跡地は深川不動尊となり、江戸六地蔵は破壊された。
明治29年に旧永代寺の塔頭だった吉祥院が永代寺の名前を継承して現在に至る。表参道の右手にある。 |
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深川公園 石造燈明台 明治三一年在銘一基 |
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深川公園 石造燈明台 明治三一年在銘一基
日清戦争(一八九四~九五)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治二八年一二月に起工し、三一年七月に竣工しました。高さ八三九・四cm、最大幅三七三・四cmの大きな燈明台で、内部は煉瓦造り。外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(一八五六~一九二二)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生で、ジョサイア・コントルに師事した日本近代建築家の一人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治二七年竣工)が現存します。
外壁には奉納者・奉納団体か刻まれた石板が三五九点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた九世市川団十郎、五世尾上菊五郎、初世市川左同次を始めとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所なとの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・川崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがわれます。竣工当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成一九年度に区指定有形文化財に指定され、平成二〇年に現在地に移設されました。 |
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深川公園 広場 |
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深川公園 明治卅七八年役戦死者忠魂碑(日露戦争忠魂碑)
東京のあちこちで見られる忠魂碑で、日清戦争のものはほとんど無いことからも、いかに日露戦争が大きな影響を及ぼしたかが分る。 |
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深川公園 追悼征清戦死者之碑(日清戦争忠魂碑)
日清戦争の忠魂碑は川崎大師など稀にしか見ない。 |
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深川不動尊 表参道 「人情深川御利益通り」 |
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深川不動尊 表参道 「人情深川御利益通り」 右折して永代通りへ
朱色の大門の左には門前仲町駅の東側の出入口がある。これは東西線専用で、大江戸線には連絡していない。 |