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松原通 六道珍皇寺 令和元年に行われる秋季寺宝展のポスター
9月から11月かけて行われる特別拝観日の告知であり、参拝した11月3日は2日から4日までの間の一日である。 |
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松原道を東進 清水道交差点にある着物レンタル店
今年(令和元年)は7月に祇園祭で、10月に時代祭で2回京都に来ているが、中国人利用がほとんどだがレンタル着物店をいくつも見てきた。しかし、このように大きな看板を掲げている店は珍しい。 |
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松原道を東進 清水道交差点にある着物レンタル店
店員のおまかせプランで3000円、その他のプランで5000円とかなり高く感じる。実際に着ている中国人を見ていると、50、60代でけばけばしいピンクや赤の着物を着ていたり、写真のようなペラペラのプリント柄は3000円コースなのだろう。 |
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松原道を東進 清水寺への坂を上る
坂の上からの一方通行で車が降りてくるが、狭いので両脇の観光客が車道にはみ出して危険である。 |
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松原道を東進 清水寺への坂を上る 日體寺 |
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日體寺先で左折、小路を北上 大漸寺 |
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日體寺先で左折、小路を北上
前方に八坂の塔が見える。 |
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日體寺先で左折、小路を北上 大漸寺 |
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八坂通との交差点 八坂の塔(法観寺)
左から八坂通の上り坂と交差する地点に八坂の塔(法観寺)がある。 |
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八坂の塔(法観寺) |
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八坂の塔(法観寺) |
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八坂の塔(法観寺) 界隈案内図
道の広狭を無視して描かれているので分かり難いが、現在地の赤印の左を下に少し下り、そこで右折して左に進んですぐ右の黄色い道(高台寺南門通)を進む。そこですぐ左折してねねの道を歩く予定だった。しかし、現在地の赤印の左を進んだ途端に工事で進めず、やむを得ず八坂通を東進して大きく上の二寧坂からねねの道に行くことにした。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺)前のレンタル着物店 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺)
法観寺に拝観料400円を払って参拝する。狭い境内はほとんど八坂の塔で占められ、いくつかの小社が周りを囲んでいる。
八坂の塔は入場可能であるが、上れるのは2層までで、入ったと思ったらすぐ出てくる。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺)
霊応山法観寺と号し、臨済宗建仁寺派に属し通称「八坂の塔」と呼ばれる。高さ46メートル・純和様建築・本瓦葺五重の塔(重要文化財)と薬師堂・太子堂(京都市指定文化財)が現存する。
殊に五重の塔は、東山一帯のシンボルとされている。本尊として金剛界の五仏を安置する。
寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重の塔を建て、仏舎利三粒を納め法観寺と号したという(589)。
またこの創建には古くから八坂郷を拠点としていた渡来系豪族狛人・八坂造がかかわるものと推測される(678)。
天暦2年(948)塔身が西に傾き、雲居寺僧・浄蔵貴所が加持してこれを復したという。また治承3年(1179)清水寺衆徒と祇園神人の争いにより類焼したが、建久2年(1191)源頼朝により再建された。
その後、寺勢は振るわなかったが仁治元年(1240)建仁寺八世・斉翁証救が入寺し禅刹に改める。正応4年(1291)落雷により焼亡したが、延慶
2年(1309)後宇多院の援助を受けて北条貞時・山内円成尼が復興した。
暦応元年(1338)以来、足利尊氏・直義兄弟は夢窓国師の勧めにより、全国に安国寺・利生塔を建てたが、山城国利生塔には当寺五重の塔をあて、仏舎利を奉納した。
あわせて播磨国印南庄の地頭職を寄進して当時塔婆復興のための供養所とし、この間の事情を南禅寺渡来僧・清拙正澄(大鑑禅師)に『法観禅寺仏舎利塔記』として記させている。
康永元年(1342)住持・高山栄元の尽力で補修され、夢窓国師を大導師に迎え盛大な供養が執り行われた。しかし永享8年(1436)炎上、同12年、室町幕府六代将軍足利義教公により再建され今日に至っている。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 薬師堂 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 熱中症計は注意
現在時刻は11:50で、熱中症計は注意、温度24.0℃、湿度51%である。
散策を初めた五条大橋では時刻は10:45で、熱中症計は厳重警戒、温度32.9℃、湿度90%であった。その時の測定値に疑問もあるが、ほぼ1時間後で天気は雲が満天に広がり、11月らしい天候である。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 八坂稲荷尊天 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 八坂稲荷尊天 朝日将軍木曾義仲塚
木曽義仲首塚(朝日塚)
木曽義仲は、源義朝の弟義賢の二男で、頼朝、範頼、義経兄弟の従兄弟にあたる。
幼くして父を失い、乳父中原兼遠によって木曽(長野県)で養育された。治承四年(一一八〇)に源頼政と養子仲家(義仲の兄)らが反平家の旗をあげるが敗死。これを聞いた義仲も木曽で挙兵すると、北陸から軍を進めて平家の軍勢を次々と撃破し、寿永二年(一一八三)には入京して、朝日将軍と呼ばれた。
しかし、義仲は翌三年一月二十日、東国から攻め上ってきた範頼と義経の軍勢に敗れ、瀬田(大津市)へ逃れる。ともなってきた兼遠の娘巴や、同じく兼遠の子である今井兼平が奮戦するが、義仲の乗馬が深田に足をとられ、粟津で討ち取られた。三十一歳であった。
義仲の首は京都にもたらされ、二十六日に東獄門脇で晒された。その後、京都に残っていた家来の一人がその首を葬らせ、朝日塚と称したという。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 八坂稲荷尊天 朝日将軍木曾義仲塚
石柱がいくつかあるが、朝日将軍木曾義仲塚は左側の小ぶりな方である。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 八坂稲荷尊天 朝日将軍木曾義仲塚
朝日将軍木曾義仲塚
木曾義仲(1154〜1184)
平安時代後期の武将。 義仲2才のとき、父義賢が甥の源義平に殺害されたのを機に、信濃の木曾山中で中原兼遠に養育されたことから、初め木曾次郎義仲と名乗った。治承4年(1180)以仁王の令旨を受けて挙兵、同年9月、木曾谷近辺を平定。
さらに寿永2年(1183)礪波山の倶利伽羅峠で平維盛らを破り、そのまま北陸道を通って琵琶湖西岸より比叡山を越え6月6日に入京した。義仲軍の京への進軍の勢いに圧された平家は京を去り西海へと落ちた。入京を果たした義仲は後白河法皇に拝謁し、平家追討の命をうけ、さらには征夷大将軍に任命される。
法皇の謀略により、義仲軍は源頼朝の差し向けた源範頼・義経の軍に宇治川の合戦で敗れ、敗走中、義仲と家来の今井四郎兼平は近江国粟津ヶ原で討ち死にした。享年31才。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 薬師堂
太子堂・薬師堂(京都市指定・登録有形文化財)
江戸初期、門前の住人の寄進により再建。太子堂には聖
徳太子三才像同十六才像を安置する。また薬師堂には本
尊薬師如来、日光月光菩薩、十二神将並びに夢見地蔵尊を安置する。 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 太子堂 |
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八坂通 八坂の塔(法観寺) 太子堂 |