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抜弁天通り〜若松町交差点〜新大久保通り 市谷柳町交差点

【関連サイト】   大江戸線H2412(若松河田駅〜牛込柳町駅〜牛込神楽坂駅)

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抜弁天通り 警視庁 第八機動隊庁舎 抜弁天通り 警視庁 第八機動隊庁舎 

抜弁天通りが緩やかに左に曲がる坂を下る途中にある。機動隊と言えば、七〇年安保とか、あさま山荘事件が思い出されるが、ノンポリ集団の理工学部で本部(理工、文学部以外の学部がある)に機動隊が出動した、と聞き、15分ほど歩いて見物にでかけた。その時ジュラルミンの大盾を持って威嚇で走るスピードに驚かされた。

機動隊のニックネームは以下の通りだが、「花の○機」があったような気もする。よく聞いたのは近衛の1機、鬼の4機である。

1機:近衛、旗本
2機:かっぱ
3機:ほこり
4機:鬼
5機:学、精強
6機:潮
7機:若獅子
8機:忍、蜂
9機:若鷹
特車:技術
抜弁天通り 大久保の犬御用屋敷跡 抜弁天通り 大久保の犬御用屋敷跡 

若松地域センターの敷地の角で、第八機動隊庁舎の先の交差点の電柱の後に立っており、分かりにくい場所にある。
抜弁天通り 大久保の犬御用屋敷跡 抜弁天通り 大久保の犬御用屋敷跡 

 厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約一万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約一万三千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。
 五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後世嗣にめぐまれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞享四年(一六八七)生類憐みの令を発し、生物の殺生をかたく禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため犬を重視したという。
 これに伴い元禄八年(一六九五)飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯、旧囲町)の三ケ所に犬御用屋敷を設置した
 大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役割を移し、元禄十年(一六九七)十一月に閉鎖され、跡地は武家屋敷となった。
抜弁天通り 若松地域センター 抜弁天通り 若松地域センター 
抜弁天通り 大江戸線 若松河田駅 抜弁天通り 大江戸線 若松河田駅 

若松地域センターの少し先の向かいにある。
抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 
抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 

団子坂

昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。嘉永七年(一八五四)の『江戸切絵図』には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。
抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 
抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 抜弁天通り 団子坂 河田町・東京女子医大北交差点 

交差点の右に女子医大通りがあり、その奥に東京女子医大がある。

九段坂下交差点から飯田橋に向かう目白通り沿いに、東京女子医科大学発祥の地碑がある。

東京女子医大は早稲田大学に近いこともあり、慶応に唯一勝てない医学部を持つため、早稲田から統合を提案したが、すげなく断られた、と言う話が大昔にあった。最近もその話が一部に出ている。
抜弁天通り 団子坂 若松町交差点で右折、大久保通りへ 抜弁天通り 団子坂 若松町交差点で右折、大久保通りへ 
抜弁天通り 団子坂 若松町交差点で右折、大久保通りへ 抜弁天通り 団子坂 若松町交差点で右折、大久保通りへ 

左右に大久保通りが走り、若松町交差点のやや左にずれた所に夏目坂がある。

早稲田通りの地下鉄早稲田駅前交差点で左折すると夏目坂通りがある。夏目漱石の随筆「硝子戸の中」(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。

当初ここで左折して早稲田大学に行こうとしたが、近くに漱石山房記念館があり、そこに寄るようにコースを変更した。
抜弁天通り 団子坂 若松町交差点で右折、大久保通りへ 抜弁天通り 団子坂 若松町交差点で右折、大久保通りへ 

夏目坂通りの坂道を下ると東西線の早稲田駅に出る。
大久保通り 坂を下り東進 大久保通り 坂を下り東進 

外苑東通りと交差する市谷柳町交差点まで坂を下り、そこから坂を上る。
 大久保通り 新宿山ノ手七福神の大黒天(経王寺) 大久保通り 新宿山ノ手七福神の大黒天(経王寺) 

新宿山ノ手七福神の大黒天(経王寺)は市谷柳町交差点手前である。
大久保通り 市谷柳町交差点 界隈案内図 大久保通り 市谷柳町交差点 界隈案内図 

左中央端の赤マークが現在地で、その左が市谷柳町交差点、赤マークの向かいが新宿山ノ手七福神の大黒天(経王寺)である。
大久保通り 市谷柳町交差点 大久保通り 市谷柳町交差点 
大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 市谷柳町駅 大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 市谷柳町駅  

漱石山房記念館にはこの交差点を左折して外苑東通りを北上するが、事前調査でこの交差点そばに近藤勇の試衛館道場がある、と分かったので立ち寄った。
大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 近藤勇の試衛館跡を探すも見当たらず 大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 近藤勇の試衛館跡を探すも見当たらず 

交差点を渡り、大久保通りの南東角を少し進んだ所の小路に入る。右の「わさびめし つず久」の向かいの路地奥に試衛館跡の碑があるはずである。
大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 近藤勇の試衛館跡を探すも見当たらず 大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 近藤勇の試衛館跡を探すも見当たらず 

試衛館跡に行く路地を探して地図の柳湯、柳町マンションを付近を歩き回る。念のため、2つの建物の裏に回ろうとしたが住宅街にそのような道はなかった。
大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 近藤勇の試衛館跡を探すも見当たらず 大久保通り 市谷柳町交差点 大江戸線 近藤勇の試衛館跡を探すも見当たらず 

柳湯、柳町マンションの間の路地は防犯のための柵が設けられており、入ることが出来なかった。

ここまで来て、という思いがあり、地図では大久保通りから入る道もあるようなので、そちらに向かった。しかし、そちらも同じような防犯の柵が設けられており、諦めることにした。
大久保通り 市谷柳町交差点 大久保通り 市谷柳町交差点 

時刻は12時であり、昼食を兼ねた休憩をとって歩こうかと思ったが、試衛館跡を見つけられなかったのに、その近くの食堂に入る気もせず、散策を中断した。



 
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