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目黒 蟠龍寺〜目黒 海福寺〜目黒不動尊(瀧泉寺)

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東急 目黒線H2010(海福寺〜五百羅漢寺〜目黒不動尊)



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突き当りを左折し、山手通りへ出て歩道橋を渡る 突き当りを左折し、山手通りへ出て歩道橋を渡る 
目黒 山手通り 蟠龍寺(弁財天) 目黒 山手通り 蟠龍寺(弁財天) 

蟠竜寺は歩道橋を渡り、すこし右に進んだ所にある。

目黒行人坂付近にあった称明院〔慶安元年(1648)開創〕を、増土寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永6年(1709)「霊雲山称名院蟠龍寺」と改名再建されました。
次いで、寛致6年(1794)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残りを今にとどめています。
本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781〜1788)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。
「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1698)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立之碑などもあります。
目黒 山手通り 蟠龍寺(弁財天) 目黒 山手通り 蟠龍寺(弁財天) 

蟠龍寺と弁天様

この寺の創建は宝永6年(一七〇九)。浄土律復興のため、増上寺の高僧・霊雲上人が行人坂下の称明院をここに移し、蟠竜寺と改名された。本尊阿弥陀如来像(都文化財)・善光寺如来像が安置されている。本堂横の祠の中に山手七福神の石仏の弁財天があり、木造の弁財天は、お堂にまつってある。池の奥に「おしろい地蔵」の異名をもつ地蔵がひっそりと立つ。
目黒 山手通り 蟠龍寺(弁財天) 山手七福神 目黒 山手通り 蟠龍寺(弁財天) 山手七福神 

山手七福神は、目黒不動(瀧泉寺 恵比寿尊)から始まり、蟠龍寺(弁財天)、大円寺(大黒天)と続く。
目黒 蟠龍寺(弁財天) 本堂 目黒 蟠龍寺(弁財天) 本堂 

安元年(1648)開創の称名院が、宝永6年(1709)に行人坂から現在地へ移転し蟠龍寺と改称。江戸名所図会に載る名所で、東都三番札所。江戸城の裏鬼門を守る弁財天として岩窟内に石造弁財天を、弁天堂内に木造弁財天(八腎の天女像)を祀り、山手七福神の一つとされる。境内右奥の「おしろい地蔵」は美人祈願の御利益があると、役者などの信仰を集めた。
目黒 蟠龍寺(弁財天) 目黒 蟠龍寺(弁財天) 
目黒 蟠龍寺(弁財天) 弁財天堂 目黒 蟠龍寺(弁財天) 弁財天堂 
目黒 蟠龍寺(弁財天) 岩窟辨財天 目黒 蟠龍寺(弁財天) 岩窟辨財天 

本堂の右奥、弁財天堂の下にひっそりとある。
目黒 蟠龍寺(弁財天) 岩窟辨財天 目黒 蟠龍寺(弁財天) 岩窟辨財 
山手通り 工事が進む首都高中央環状品川線 山手通り 工事が進む首都高中央環状品川線 

平成25年度完成の予定である。
山手通り 羅漢寺交差点で右折 山手通り 羅漢寺交差点で右折 

交差点左角のビルに松風羅漢像がある。松風禅師は、元禄年中に536体の羅漢像を彫り、本所五ツ目に五百羅漢寺を築いた。明治42年に下目黒に移転、荒廃したが、昭和56年に再興した。その記念に松風羅漢像を作った。
山手通り 羅漢寺交差点で右折 山手通り 羅漢寺交差点で右折 
目黒 海福寺 目黒 海福寺 

海福寺は、入口の四脚門や、文化4年(1807年)8月に永代橋が崩落、440名が溺死した人々を供養する永代橋崩落横死者供養塔など、見るべきものが多い。
目黒 海福寺 目黒 海福寺 

 明から来朝した隠元隆gが万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
 本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来立像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。
 山門の赤い四脚門(区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建したものです。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化4年(1807)の深川富岡八幡大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。
 また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。
目黒 海福寺 四脚門 目黒 海福寺 四脚門 

階段中央左手に小広場があり、永代橋崩落横死者供養塔などがある。
目黒 海福寺 宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」 目黒 海福寺 宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」 
目黒 海福寺 宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」 目黒 海福寺 宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」 

文化四年八月十九日深川八幡の祭礼の時人出のため永代橋が落ち数百人の人々が水死しました。
その霊を供養するため木場の人々が建立した供養塔です。
これは昔は大変有名な事件で歌舞伎では黙阿弥作「八幡祭望月賑」、落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという「永代橋」の素材となっています。
目黒 海福寺 宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」 目黒 海福寺 宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」 
目黒 海福寺 文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑 目黒 海福寺 文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑 

文化四年(一八〇七)八月の江戸深川富岡八幡宮の大祭は、一一年ぶりに催されたため大変な賑わいであった。当日、人びとは永代橋を渡って深川にやって来たが、その折、永代橋が崩落し多数の溺死者を出すという江戸はじまって以来の大惨事が発生した。
この供養塔及び石碑は、その落橋事件の溺死者の百日忌・五十回忌・七十七回忌・九十一回忌の折に、深川寺町通り(現・江東区深川二丁目付近)にあった海福寺境内に建立された。溺死者四四〇名とも言われた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受けとめ後世に伝えていたかを明らかにすることができる都内における唯一の資料である。
海福寺は、明治四三年(一九一〇)目黒区下目黒三丁目の現在地に移転したが、これら供養塔もそのとき一緒に移設され、現在に至っている。
目黒 海福寺 四脚門 目黒 海福寺 四脚門 

海福寺四脚門は明治後期に新宿区上落合泰雲寺にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。
また、四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本ずつある四本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式であり当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸時代中期の特質を備える貴重なものである。
目黒 海福寺 本堂 目黒 海福寺 本堂 

万治元年(1658)明の帰化僧隠元が江戸深川に開創した黄檗宗の寺でしたが、明治43年にここに移転しました。
山門の赤い四脚門は明治後期に上落合の泰雲寺から移建したもので、落ち着きのある景観をうみだしています。(区指定文化財)
山門傍らの宝篋印塔「永代橋沈溺諸亡霊塔」は文化4年(1807)永代橋落死者供養のために建てられたものです。台石にはその由来と遭難者名が刻まれています。
本堂の右側の梵鐘は天和3年(1683)江戸の藤原正次の作で、中国の禅刹の鐘に似ていますが、日本の古鐘の形式に範をとり特異な考案によって造られ、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない名作です。(都指定文化財)
目黒 海福寺 九層の塔 目黒 海福寺 九層の塔 

武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔(江戸名所図会より)
目黒 海福寺 東京都指定有形文化財の梵鐘 目黒 海福寺 東京都指定有形文化財の梵鐘 

天和二年に当時深川にあった海福寺が全焼し
梵鐘も灰燼に帰しました。
時の住職独本が新鋳し、黄檗宗の開祖隠元大師の新鋳を祝した銘が刻まれています。
裾の雲形の柔い線は、我国伝統の様式に中国風の桑か味を工夫した他に類例のない逸品です。
目黒 海福寺 鐘楼 目黒 海福寺 鐘楼 
目黒 五百羅漢寺 目黒 五百羅漢寺 

この地区一帯の寺社で唯一拝観料が必要なので、イベントの時でも参拝する人はほとんど見ない。

この寺は、元禄8年(1695)江戸本所に建てられた有名な寺でしたが、明治42年(1909)ここに移されました。
本堂及び回廊に安置されている五百羅漢像は、元禄年間松雲元慶禅師が、各方面から寄進を受けて、自ら彫刻したものです。
木造の釈迦三尊や五百羅漢等305体の像はそれぞれ姿の違った人間像として、巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量に存在することは珍しく、近世彫刻史上注目すベき美術品といわれています。昭和45年に東京都指定文化財に指定されました。
屋上にある銅鐘は安永3年(1774)、田中丹波守藤原重行作で、他に類例のない特徴をもち、鉄牛禅師の銘を刻んであり、国の重要美術品として認定を受けています。
目黒 五百羅漢寺 目黒 五百羅漢寺 

 天恩山五百羅漢寺は、元禄8年(169 5)鉄眼禅師を開山として江戸本所(現、江束区大島)に創建された黄檗宗の寺でした。当時、境内には、さざい堂(三匝堂)」という建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一堂に諸仏像を拝観できると人気を博しました。明治41年(1908)ここ下目黒の地へ移り、現在は浄土系単立の寺です。
 本堂および回廊に安置されている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶禅師が各方面から寄進を受け、十余年かけて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊及び五百羅漢等像の305体の像(都指定文化財)は、それぞれ姿の違った人間像として巧みに表現されており、しかもこのような大型の像が多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目すべき貴重なものです。
 書院屋上にある梵鐘は安永3年(1774)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例のない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。
目黒不動尊への近道を進む 目黒不動尊への近道を進む 

五百羅漢寺の前の道は直角に左に曲がるが、右手の人一人がやっとの道を目黒不動尊の塀に沿って歩くと仁王門に着く。
目黒不動尊への近道を進む 目黒不動尊への近道を進む 
目黒不動尊の壁沿いに進む 目黒不動尊の壁沿いに進む 
目黒不動尊(瀧泉寺) 大本堂 目黒不動尊(瀧泉寺) 大本堂 

目黒不動尊(瀧泉寺)については、別ページにまとめた。



 
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