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春日町交差点〜旧真砂町〜菊坂下交差点

【関連サイト】   樋口一葉が愛した本郷・真砂町(H16−11−20)

御茶ノ水・水道橋 歴史を歩く探訪ツアー(H18-02-11)(白山神社〜樋口一葉旧居跡〜水道橋駅)



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春日通り 春日町交差点 春日通り 春日町交差点 

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【撮影記録】
平成23年 1月 21日 快晴
11:35〜13:40 11,900歩(概算 8.3km 地図上の距離 7.4km)

樋口一葉などの旧居がある旧真砂町界隈はゴチャゴチャしているので、文京区役所で地図など詳細情報の入手を行った。6年前に樋口一葉が5,000円札に選ばれたとき、多くのイベントが行われ、見物客が殺到した。その時、タバコやゴミが捨てられ、大声で密集地を歩いたり、民家をのぞくなどしたため、地区町内会から厳しい抗議がなされ、文京区として案内板を撤去したり、大勢での見物を遠慮するよう、指導を行っている。そのため、地図も曖昧なものしか無い。それ以外は馴染みのコースであり、久しぶりに谷中霊園の徳川慶喜の墓所を訪れた。
春日町交差点 春日通り 真砂坂(東富坂)を上る 春日町交差点 春日通り 真砂坂(東富坂)を上る 
春日通り 真砂坂上交差点で左折 春日通り 真砂坂上交差点で左折 
春日通り 真砂坂上交差点で左折 春日通り 真砂坂上交差点で左折 
文京ふるさと歴史館 文京ふるさと歴史館 

文京区の歴史、ゆかりの文学者や史跡などをわかりやすく学べる。
文京ふるさと歴史館 文京ふるさと歴史館 
旧町名案内 旧真砂町 文京ふるさと歴史館 

 寛永(1624〜44)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけか町屋であった。
 明治2年、古庵屋敷を併せて真砂町の新町名をつけた。浜の真砂のかぎりないようにと町の繁栄を顧って命名した。
 明治5年には、松平伊賀守(信州上田藩・5万8千石)屋敷や、松平右京亮(上野高崎藩・8万2千石)の屋敷などの武家屋敷跡を併せた。右京亮の中屋敷跡は右京ヶ原(右京山とも)といわれ長らく原っぱであった。富田常雄の名作「柔三四郎」の三四郎と源三郎の対決の舞台となった。
 真砂町は、泉鏡花の「婦系図」恩師酒井先生の”真砂町の先生”でよく知られている。
真砂中央図書館 真砂中央図書館 
旧真砂町 炭団坂上 旧真砂町 炭団坂上 

左の建物の前に「坪内逍遥旧居・常磐会跡」の説明板がある。
旧真砂町 炭団坂上 坪内逍遥旧居・常磐会跡 旧真砂町 炭団坂上 坪内逍遥旧居・常磐会跡 

 坪内逍遥(1859〜1935)は、本名雄蔵、号は逍遥、または春廼舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神髄』(明治18年〜19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遥宅(春廼舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。 逍遥が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。

 ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 嗚くほととぎす   正岡子規
 (常磐会宿舎から菊坂をのぞむ)
旧真砂町 炭団坂上から見た風景 旧真砂町 炭団坂上から見た風景 

かなり急な崖であり、坪内逍遥の門下生・嵯峨の舎御室が「逍遥宅(春廼舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想しているのもよく分かる。
また、民家が密集しており、この中に文豪の旧居があるが、地域から見物客への抗議が出るのもむべなるかな、である。
旧真砂町 炭団坂 旧真砂町 炭団坂 

本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
旧真砂町 炭団坂を下り、民家の道を歩く 旧真砂町 炭団坂を下り、民家の道を歩く 
旧菊坂町 民家の角で左折 旧菊坂町 民家の角で左折 

以前は角に樋口一葉旧居の案内板があり、ここで左折した。今は地域町内会の環境悪化の抗議で撤去されており、「知る人ぞ知る」の場所となっている。
旧菊坂町 樋口一葉旧居 旧菊坂町 樋口一葉旧居 

井戸の所が樋口一葉旧居で、以前は説明板があった。

路地の狭い道の奥にある。
一葉は、父の死後母妹と共に、次兄虎之助のもとに身を寄せた。しかし、母と虎之助との折り合が悪く、明治23年(1890)9月、3人は旧菊坂町70番地(この路地の菊坂下道に向かって右側)に移ってきた。
坂の萩の舎(一葉が14歳から没するまで通った歌塾)に近い所であった。明治25年(1892)5月にはこの路地の反対側の下道に面したところ(菊坂町69番地)に移った。
旧菊坂町 階段を上り菊坂へ 旧菊坂町 階段を上り菊坂へ 

以前は色々とあった案内板が完全に撤去されているため、昔のおぼろな記憶を元に歩くしか無い。町内会の掲示板横の階段を上ると一葉ゆかりの伊藤質店がある菊坂だったはず、と思い上る。
旧菊坂町 由来 旧菊坂町 由来 

 この辺一帯に菊畑があった。坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。
 元禄9年(1696)町家が開かれ、その後町奉行支配となった。
 町内には、振袖火事の火元の本妙寺があった。下通りには、女流作家樋口一葉が住んだ。現在旧居跡には(使った)掘抜井戸が残っている。

以前あった(使った)が消されている。
旧菊坂町 菊坂を下る 旧菊坂町 菊坂を下る 

全く案内板がないため、ここが菊坂である、との確信は持てない。自動車が走る広い道なので、多分菊坂だろう、と思う。
旧菊坂町 菊坂 一葉ゆかりの伊勢屋質店 旧菊坂町 菊坂 一葉ゆかりの伊勢屋質店 

樋口一葉が菊坂町に住んでから、度々利用した質屋である。

案内板はかすれて読めない。
旧菊坂町 菊坂 一葉ゆかりの伊勢屋質店 旧菊坂町 菊坂 一葉ゆかりの伊勢屋質店 
菊坂下交差点で右折、言問通りへ 菊坂下交差点で右折、言問通りへ 

左折すると白山通りの西片交差点に出る。



 
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