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赤間神宮(大安殿〜平家一門の墓〜安徳天皇 阿彌陀寺陵)

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国道9号 赤間神宮 国道9号 赤間神宮 

当初は下関駅から海峡ゆめ広場を見た後、国道9号を東進、水族館海響館、唐戸市場、亀山八幡宮と歩く予定だった。しかし、博多程ではないものの蒸し暑く、熱中症症状が出かけてきたので、下関のポイントである赤間神宮、壇ノ浦古戦場跡を見損なわないよう、タクシーを使った。
国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 
国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 

海峡守護『碇』の由来

 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
 今を去る八百年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見しめ、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、龍宮城へ旅立たれました。
 それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将ぶりがたたえられています。
 このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、海峡の平安を祈るものであります。

   昭和六十年五月二日
   源平八百年祭を記念して
   寄進 下関海洋少年団
国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 

謡曲「碇潜」と壇の浦

 謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
 壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍物語を所望する。
 漁翁(実は平知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り跡の弔いを願う。
 旅僧の回向に導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門悉く入水するまでの経過と、自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総師の面目と情趣に想いの馳せる海岸である。

           謡曲史跡保存会
国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 
国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 国道9号 赤間神宮前 海峡守護『碇』 
国道9号 赤間神宮前 駐車場 国道9号 赤間神宮前 駐車場 
国道9号 赤間神宮 鳥居前 境内案内図 国道9号 赤間神宮 鳥居前 境内案内図 
国道9号 赤間神宮 太鼓楼 国道9号 赤間神宮 太鼓楼 

太鼓楼記
 水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長清原梅義氏は本宮崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日旧元旦を期して見事に竣成す 蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす
鼓音とうとうと関門海峡をわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ
国道9号 赤間神宮 国道9号 赤間神宮 

赤間神宮
 御祭神 第八十一代 安徳天皇
 御祭日 五月三日  先帝祭
     十月七日  例大祭

 寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を成し同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰き御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり
国道9号 赤間神宮 水天門 国道9号 赤間神宮 水天門 

水天門記
 惟時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は卆先多額の御寄進に加へて曰く即ち関門海底国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋 我国未曾有の御由緒と関門の此の風光明眉とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の
  今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへは
に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
  みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり

水天門掲額の記
 神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁観王殿下の御染筆をたまわり平成十七年五月三日脚祭神と仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召しを以て御自ら除幕を項いたものであります
国道9号 赤間神宮 拝殿 国道9号 赤間神宮 拝殿 
国道9号 赤間神宮 太鼓楼 国道9号 赤間神宮 太鼓楼 

太鼓楼記

祭神御神徳の第一たる水天神鎮の恩頼を蒙奉る関門港湾建設株式会社取締役社長清原梅義氏は赤間神宮崇敬会会長として夙に敬神の念に篤く時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の龍宮の具現に在りと大太鼓楼の造立を発願平成元年秋を期して着工し同二年一月二十七日旧元旦竣成す蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢なるをもってここに除幕奉献せらる打鳴らす鼓音鼕鼕と関門海峡を渡り国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ此処に其由来を記寸と云爾
  祈りつつ打つ大太鼓神なから
  百千のねかひみそなはすらむ
国道9号 赤間神宮 太鼓楼 国道9号 赤間神宮 太鼓楼 
国道9号 赤間神宮 拝殿 国道9号 赤間神宮 拝殿 
国道9号 赤間神宮 拝殿 国道9号 赤間神宮 拝殿 

勅額の由来

惟時昭和六十年五月二日御祭神安徳天皇八百年式年大祭に際し有栖川宮幟仁親王殿下の御染筆を高松宮同妃両殿下の御監修並ひに除幕を賜はれるものにして京都市松本明重翁金五百万円を奉り神額を献納東京の小西美術工藝社是を拝命するや新たに青海波を意匠し謹みて製作せるものなり
国道9号 赤間神宮 拝殿 国道9号 赤間神宮 拝殿 

八咫鏡発掘並奉献者 春名義雄殿 頌徳碑

維時昭和三十三年四月七日赤間神宮に畏くも天皇皇后両瞳下行幸啓御参拝の事あり是より恰かも百日目の七月十三日岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は予ねて郷土史研究家として知られ地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや正規の手続を経て土地の伝説たリしを現実に発掘するに至る春名義雄氏は此年九月十三日安徳天皇御入水の地下関市壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等紆余曲折すること二十有余年即ち昭和五十三年其の一切を竟り来る昭和六十年五月安徳天皇八百年先帝大祭を迎うろに当り斯くも生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らかにするものなり

          昭和五十九年十二月吉日
          赤間神宮宮司
 国道9号 赤間神宮 展望台 関門橋 国道9号 赤間神宮 展望台 関門橋 

関門橋について

関門海峡の早鞆の瀬戸に架設された吊橋で昭和43年4月1日より着工し延30万人の力と5ヶ年7ヶ月の歳月と工事費 億円をかけ6車線の自動車道が完成し関門国道トンネルの2車線を併せると1日約8万台の自動車交通が可能になりました
 国道9号 赤間神宮 展望台 関門橋 国道9号 赤間神宮 展望台 関門橋 
国道9号 赤間神宮 祈願受付・神符授与所 国道9号 赤間神宮 祈願受付・神符授与所 

拝殿の左奥に祈願受付・神符授与所があり、その建物の中に宝物殿がある。その裏に平家塚と耳なし芳一堂があるが、分かりにくい。
 国道9号 赤間神宮 宝物殿、耳なし芳一堂 国道9号 赤間神宮 宝物殿、耳なし芳一堂 

手前の白壁の建物に宝物殿があり、その奥が耳なし芳一堂である。

御神宝類
 重要文化財  平家物語長門本  全二十冊
 重要文化財  赤間神宮文書   全十巻一冊
 山口県文化財 安徳天皇縁起絵図 全八幅
        平家一門画像   全十幅
        源平合戦屏風   一双ほか
宝物殿にて適時公開す
 国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 

平家一門之墓

前列
左少将     平有盛
左中将     平清経
右中将     平資盛
副将能登守  平教経
参議修理大夫 平経盛
大将中納言  平知盛
参議中納言  平教盛

後列
伊賀平内左衛門 家長
上総五郎兵衛  忠光
飛騨三郎左衛門 景経
飛騨四郎兵衛  景俊
越中治郎兵衛  盛継
丹後守侍従   平忠房
從二位尼    平時子
 国道9号 赤間神宮 耳なし芳一堂 国道9号 赤間神宮 耳なし芳一堂 
国道9号 赤間神宮 耳なし芳一堂、平家一門之墓 国道9号 赤間神宮 耳なし芳一堂、平家一門之墓 
国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 

摩滅が激しく分かりにくいが、左から忠盛の4男、清盛の異母弟で壇ノ浦で兄の経盛と入水自殺した教盛、次が勇将として名高い知盛、3番めが忠盛の3男の経盛、その右は壇ノ浦で義経に挑んで八艘飛びで逃げられた教盛の次男で猛将の教経である。
国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 

七盛の
墓包み降る
椎の露

高浜虚子
国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 国道9号 赤間神宮 平家一門之墓 
国道9号 赤間神宮 耳なし芳一堂 国道9号 赤間神宮 耳なし芳一堂 

耳なし芳一の由来
 その昔 この阿弥陀寺(現・赤間神宮)に芳一といへる琵琶法師あり
夜毎に平家の亡霊来り いづくともなく芳一を誘い出でけるを ある夜番僧これを見あと追いければ やがて行く程に平家一門の墓前に端座し一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとはするそ とて自ら芳一の顔手足に般若心経を書きつけけるほどに 不思議やその夜半 亡霊の亦来りて芳一の名を呼べども答えず見れども姿なし 暗夜に見えたるは只両耳のみ 遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ
 是より人呼びて耳なし芳一とは謂うなり
国道9号 赤間神宮 水天門 国道9号 赤間神宮 水天門 
国道9号 赤間神宮 水天門 国道9号 赤間神宮 水天門 
国道9号 赤間神宮 安徳天皇 阿彌陀寺陵 国道9号 赤間神宮 安徳天皇 阿彌陀寺陵 

水天門を出て右折、太鼓楼前を通って歩くと安徳天皇阿彌陀寺陵がある。入門することはできない。
国道9号 赤間神宮 安徳天皇 阿彌陀寺陵 国道9号 赤間神宮 安徳天皇 阿彌陀寺陵 

阿彌陀寺陵の前の階段を下り、国道9号に出ようとしたが、柵があり出ることができない。また、境内案内図では阿彌陀寺陵をさらに進むと日清講和記念館、春帆楼に出られるとなっているが、これも出られず、結局太鼓楼に戻らざるを得なかった。
国道9号 赤間神宮 国道9号 赤間神宮 

国道9号の鳥居際に建てられている。

本場「ふく料理」の由来

下関と言えば「ふく」ふくの本場はなんと言っても下関であります。

●ふくの歴史
遠く二千年の昔縄文時代の遺跡から食用のふくが発見され平安時代より多くの文人墨客の筆や歌に書き残されて参りました。
豐臣秀吉がふくの禁令を出して以来明治に至る迄、武家社会は食することを禁じられて来ましたが、伊藤博文公か来関の折り、ふく料理の美味に感じ、時の條令を不粋として廃止させ一躍下関が本場として名を高めることになりました。

●ふくの毒と味
今では毒素も解明され其の知識と技術の向上により
安心してお召しあがり頂けます。
淡白な味のよさは魚の中で王者とも言われ最高のものとされております。
 ふく喰わぬ者は通さぬ
        ふくの関

ご来関の皆様には是非話の種にご賞味下さい。
    協同組合 下関ふく連盟
         下関唐戸魚市場株式会社
国道9号 赤間神宮 国道9号 赤間神宮 

国道9号に出て、少し下関駅方向に戻ると日清講和記念館がある春帆楼に出る。



 
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