博多サザエさん通り、志賀島金印〜下関、門司港歴史遺構〜
宇佐神宮〜別府地獄めぐり 周遊H300918〜21
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博多散策H300918(サザエさん通り〜福岡市博物館)
羽田で通常よりも早く搭乗が開始されたためカメラが用意できなかった。そのため、富士山山頂上空、琵琶湖、小豆島、瀬戸大橋などの瀬戸内海を撮ることができなかった。羽田から約2時間で福岡空港に着き、地下鉄で5分で博多駅に至る。博多駅で筑紫口に出るのか、博多口に出るのか迷ったあと、駅前に小公園がある博多口に出て住吉通りを歩き、ANAクラウンプラザホテル福岡で荷物を預ける。ホテルロビーには博多祇園山笠 六番山笠 東流と、山笠台、参加群像とも十分の一の縮尺とし、舁き子の服装、人数も忠実に再現した追山人形が展示されている。六番山笠は、鶴崎城攻防で島津勢の猛攻を凌いだ大友勢の守将の鉄砲を構えた妙林尼像が飾られている。
地下鉄空港線の博多駅から西新駅に向かう。西新駅の姪浜方向の地下道はサザエさん通りと界隈案内図が掲示され、地上に出ると明治通りの脇山口交差点である。事前に地図で調べてサザエさん通りを歩くことは分かっていたが、こうまで丁寧な案内図が設置されているとは思わなかった。この驚きは地上に出て僅かな距離のサザエさん通りに並ぶ碑や像、案内板の数の多さの驚きにに比べれば小さいものだった。脇山口交差点を渡ると早良街道で、ラーメン店などの飲食店が並ぶ。交差点で右折するとサザエさん通りである。大きな案内板が建てられている脇山口交差点からサザエさん通りを北上、藩校だった県立修猷館高校の先の西南学院大学図書館前には 「町子先生とサザエさん」像があり、戦中戦後に長谷川町子がこの近くに住み、サザエさんの構想を練ったなどのエピソードが書かれた案内板が立っている。西南学院大学のキャンパス沿いにサザエさん通りを北上、西新通り交差点で左折する。
西新通り交差点を左折するとすぐに「サザエさん発案の地』の小公園があり、長谷川町子の幼少時や戦中戦後の博多在住のエピソードや、サザエさん掲載、サザエさんと家族命名のの経緯などが詳細に述べられた説明版が有る。現在はその面影はないが、終戦直後は百道の浜だったことが海産物の名前が付けられたことが分かる。右手に福岡タワーを見つつサザエさん通りを西進、福岡市博物館に着くも「本日は休館日です」の案内が出ている。三連休明けの休館と思われ、予定ではここから福岡ヤフオクドーム、大濠公園、天神、中洲と歩いて博多駅前のホテルに戻る予定だったが、軽い熱中症状態だったのでバスで博多駅に戻ることにした。ちなみに、3日後に大分から由布岳、日田天領跡を巡る予定だったが、悪天候のため予定を変更、博多に戻って福岡市博物館の志賀島金印(漢委奴国王)を見物することができた。
下関、門司港散策H300919(赤間神宮〜壇ノ浦古戦場跡〜門司港レトロ)
祇園太鼓像がある小倉駅南ペデストリアンデッキを通ってホテルに荷物を預け、下関に向かう。高杉晋作の功山寺挙兵などを描いた明治維新150周年小旗で飾られた東口駅前バスロータリーから、下関駅のランドマークであるシーモール下関、準鉄道記念物 車両航送発祥の地
碑、エディオン下関店前を東進、海峡ゆめ広場に至る。海峡ゆめ広場に入ると正面に海峡メッセ下関と一体となった海峡ゆめタワーが聳え立つ。広場の右手には準鉄道記念物 関釜 関門航路 下関鉄道さん橋跡がある。下関鉄道さん橋は 明治34年5月の関門航路 同38年9月の関釜航路開設に伴って 大正3年7月に本格的な岸壁を築造、その歴史的第一歩を印した。その後関釜航路は隆盛の一途をたどり、昭和11年には7千トン級の金剛丸型、さらに 昭和17年には8千トン級の天山丸型が就航た。しかし、第2次世界大戦で大打撃を受け、終戦で営業を停止した。
国道9号沿いの赤間神宮前駐車場奥に平知盛に因む海峡守護『碇』が飾られている。赤間神宮の階段を上ると太鼓楼で、その右の水天門を抜けると広場で、その先の階段を上ると拝殿である。龍宮城のような水天門は大洋漁業副社長の、立派な太鼓楼は関門港湾建設社長の寄贈である。拝殿右奥の展望台から関門橋を見た後、拝殿左の祈願受付・神符授与所の裏にある耳なし芳一堂、耳なし芳一堂、平家一門之墓を訪れる。平知盛、教盛、教経、二位の尼などの平家一門之墓は摩耗が激しく、読むのが困難である。水天門を出て太鼓楼の奥にある安徳天皇 阿彌陀寺陵は門が閉められていて立ち入ることはできない。国道9号に戻り、下関駅側に隣接する春帆楼に向かう。
春帆楼は赤間神宮に隣接し、関門海峡を望む高台に位置する旅館兼料亭として伊藤博文の命名により創業を開始、ふぐ料理公許第一号店として、また明治28年に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場としても知られる。
春帆楼にはふくの碑が、日清講和記念館脇には伊藤博文像、陸奥宗光像がある。登録有形文化財の日清講和記念館は無料で、係員は不在だが、自由に参観できる。館内には講和会議場を再現した会議室や、関係者の使用したものなどが展示されている。春帆楼前公園の下関市との姉妹都市広場、関門海峡を航行する貨物船、「関門航路改修事業草創の地」記念碑を見た後、阿弥陀寺公園の奥の朝鮮通信使上陸淹留之地碑に至る。
関門橋下、国道9号沿いにある関門プラザは、関門トンネル資料館で、関門トンネル (国道2号)の人道入口でもある。当初人道を歩いて門司港に行く予定だったが、蒸し暑さがひどくて熱中症になりかけていたのでバスと、電車で門司港に向かった。関門海峡の壇ノ浦にあるみもすそ川公園は壇ノ浦古戦場跡で、碇を持った平知盛と、八艘飛びの源義経の像や、
二位尼辞世が書かれた安徳帝御入水之処碑がある。その奥にある馬関戦争でフランスに奪われた青銅砲を忠実に再現した天保製長州砲、FRP製の5門の長州砲(八十斤加農砲)を見て、バスで下関駅に戻る。
門司港駅の正面口は現在工事中であり、いかにも田舎の寂れた駅、という雰囲気である。当初計画で平成29年度末に工事完了だったが、耐震工事のため平成31年春完了とのことである。門司港駅東口のバスターミナルで左折し、旧JR九州本社ビルに沿って歩くと門司港駅入口交差点の向かいに旧門司三井倶楽部が見える。旧門司三井倶楽部前の国道198号を歩いて門司港に向かうと、工事用フェンスに覆われて見えなかった門司港駅の正面口がよく見える。工事が完了すると駅の正面に旧門司三井倶楽部があることになり、観光の便は格段に良くなるであろう。門司港駅前交差点で右折し、赤レンガ造りのカフェレストラン 王様のたまごを過ぎてプレミアムホテル門司港前で右折、旧大阪商船(大阪商船三井船舶 門司支店)沿いを進むと海賊船仕様の海上レストランであるファンキータイガー カリビアンが係留するハーバーデッキである。門司港駅側の国道198号から見るよりも、少し距離をおいたハーバーデッキから旧門司三井倶楽部や八角型の塔屋がある旧大阪商船を見たほうが趣がある。ハーバーデッキを歩いて海峡プラザに向かう。
海上レストランのファンキータイガー カリビアンを北、ハーバーデッキを西とすると、焼きカレーやビール、ジュースなどの飲食店や土産物店が並ぶ海峡プラザは南である。朝鮮人観光客が多いのは当然だが、何故か比較的若い南米観光客が多いのが不思議である。日本人は若いカップルか、乳幼児の孫を連れた中高年夫婦ばかりである。もっとも平日なので現役のサラリーマンがいるはずもない。門司港レトロの東には、建築家黒川紀章が設計した高層マンション「レトロハイマート」の31階にある門司港レトロ展望室や、今年(平成30年)3月に閉館となった国際友好記念図書館があった門司港レトロ倶楽部、旧門司税関、跳ね橋のブルーウィングもじがある。
大分散策H300920(宇佐神宮〜別府地獄めぐり)
誤算は小倉では普通の雨が宇佐では篠突く雨となり、重いスポーツバッグを担ぎながらの歩行は困難で、予約済みの別府地獄めぐりのスケジュールの関係で途中で断念せざるを得なかった。立派な表参道で、雨は激しいが、晴れていれば歩きやすい。表参道の右側は仲見世で土産物店が並ぶが、普通は荷物預かりの声が掛かるのに店員もただ見ているだけである。激しい雨の中、重いスポーツバックを抱えて難儀をしているのが明白なのに、である。表参道を直進し、機関車の実物展示がなされている鳥居から宇佐神宮御由緒
、宇佐八幡神輿 東大寺法神幸記念碑、神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑と続いて右折、寄藻川に架かる神橋を渡る。雨は激しく、表参道入口から宇佐神宮本殿までの半分も来ていないことから、予約済みの別府地獄めぐりの観光バス時間との関係から大鳥居で参拝を諦めた。仲見世に出て、店員にタクシー乗り場を尋ねたところ、呼ぶ必要があるとのことで手配してくれた。宇佐駅で1時間に1本の特急で別府に向かった。
別府駅のコインロッカーにスポーツバッグを預けて地獄めぐり観光バスの始発である北浜バスセンターに向かった。雨が激しいので近くまでバスで行くことにした。角をはやした観光バスに乗り、鉄輪地区の5ヶ所の地獄巡りを経て、柴石地区の2ヶ所を巡る。最初の海地獄は最大の地獄で、大鬼蓮池はシーズンになると子供が乗れるほど大きな蓮、と言われても小さな蓮がまばらにあるのではイメージがわかない。硫酸鉄によってコバルトブルーの一見涼しげな色をしているが、その温度は98度で、泉脈までの深さは200mにも達する。
海地獄から歩いて次の鬼石坊主地獄に向かう。雨は普通の降り方に変わる。鬼石坊主地獄は、熱泥がそこかしこで吹き上げ、坊主(僧侶)の頭のように膨れることからこのように呼ばれる。坊主とは言い得て妙で、灰色の熱泥から次々に頭頂部が出てくるのは面白い。丘を下りかまど地獄に向かう。かまど地獄は、竃門八幡宮(かまどはちまんぐう)の大祭でここの噴気を使って神前に供える御飯を炊くことからこの名が付いた。他の地獄をダイジェストにして集めたような雰囲気で、それぞれ「地獄の一丁目」から「六丁目」と名付けられている。6種類の色々な地獄があり、ここを見れば規模は小さいが、他の地獄に行かなくても良いような気もする。四丁目と六丁目では地獄のガイドがタバコの煙を吹き付けると湯気が見える、という実演を行っている。
雨天のせいもあって湯気がもうもうと立つ鬼山地獄は、マレーシアのサラワク州から移築された建物がワニ博物館で、隣接してワニ園がある。鉄輪温泉開祖 一遍上人像がある白池地獄は熱帯魚感がある。いずれも他の3地獄に比べ地獄としての魅力が乏しく、併設館で補っている感じが強い。白池地獄からバスに乗り柴石地区に向かって血の池地獄に入る。この地獄も単に赤色の池というだけで、隣接する間欠泉の龍巻地獄の噴出時間待ちの場所である。龍巻地獄は数段のベンチが設けられ、観光客は唐突に噴出する間欠泉を待つ。本来は50mの高さまで噴出するそうだが、観光客の安全を考え、高さ10mの石の枠内の噴出で抑えられている。そのためか、噴出してすぐに中国人観光客グループが席を離れてしまった。
博多散策H300921(福岡市博物館 志賀島金印)
大分県内はしっかり雨が降っており、予定の湯布院、日田天領散策は前日の宇佐神宮と同じと考え、午後からは曇りとなる博多に直行し、見損ねた志賀島金印(漢委奴国王)を見ることにした。帰京のタイミングもあり、西新駅からバスで福岡博物館に向かった。福岡博物館は敷地が広く、建物も広いが、展示施設は2階だけで、その中心は常設展示室の2階の青の部分の志賀島金印(漢委奴国王)である。志賀島金印(漢委奴国王)については別ページにまとめた。金印を見た後、1階エントランスの博多人形 四季のまつりを見て正面から出る。福岡博物館の正面には池や、アーチがあり、広大な敷地を使った見事な建物である。
2階の展示コーナー左に志賀島金印の常設展示室が設けられている。室内は薄暗く、入ってすぐに金印が展示されている。第一印象はなんと小さい、続けてなんときれいな金印だ、である。小指の先に、とは言わないが、発見時に石の箱の中にあった、と言われており、単体だったら見落とすほどの小ささである。しかし、金印レプリカでの体験コーナーで金印と同じ重さのレプリカを持ってみると、ずっしりと思い。さすがは比重19.3の金印であり、重いのは当然である。室内には金印の歴史、由来、色々な学術論争などが展示されている。
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