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上野公園〜西郷銅像〜上野駅

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上野公園 大噴水 上野公園 大噴水 
上野公園 大噴水 上野公園 大噴水 

大噴水の外周沿いにチューリップの鉢植えセットが並べられている。正月ではあるが、蕾から咲き始めたばかりの段階だがきれいである。
上野公園 大噴水 上野公園 大噴水 

見苦しいので撮らなかったが、数人のホームレスが半裸になって日向ぼっこをしていた。
上野公園 大噴水前 熱中症計はほぼ安全 上野公園 大噴水前 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は12:40で、温度11.6℃、湿度は低くて測定不能、熱中症計はほぼ安全である

前回は上野寛永寺(第三霊園)徳川綱吉の勅額門前で12:15で、温度14.7℃、湿度は低くて測定不能、熱中症計はほぼ安全である。温度は3℃も下がったが、無風でポカポカして暖かく、大して歩いてもいないのに気が抜けたのか疲労感が強くなった。
上野公園 大噴水広場のスターバックス 上野公園 工事中の大噴水広場 

大きな店で賑わっている。
上野公園 工事中の大噴水広場 上野公園 工事中の大噴水広場 

なにを工事しているのか分からないが、大噴水からサクラ並木のさくら通りに行くのが不便である。
上野公園 工事中の大噴水広場 上野公園 工事中の大噴水広場 
上野公園 枯木のサクラ並木のさくら通り 上野公園 枯木のサクラ並木のさくら通り 

本来なら大噴水広場で多く行われる大道芸がさくら通りで行われている。日本では大道芸の習慣が乏しいせいか、立ち止まる人も少なく、チラッと見て通り過ぎる人ばかりでチップを入れる人は殆どいない。
上野公園 枯木のサクラ並木のさくら通り 上野公園 枯木のサクラ並木のさくら通り 
上野公園 枯木のサクラ並木のさくら通り 上野公園 枯木のサクラ並木のさくら通り 
上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 
上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 
上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 

この石段坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(一六三一) に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄七年(一六九四)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。
上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 上野公園 動物園通りから桜並木のさくら通りへの清水坂を上る 
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 

清水坂を上ると目の前に鬱蒼とした木立があり、そこが彰義隊墓所である。
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 

彰義隊の墓

 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。
 正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 
上野公園 彰義隊墓所 上野公園 彰義隊墓所 

彰義隊の墓

 十五代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応四年(一八六八年)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦五月十五日の上野戦争は、武力に勝る新政府軍が一日で彰義隊を壊滅させた。
 生き残った小川ら隊士は、明治七年(一八七四年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千佳円通寺内に合葬されている。以後、百二十年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
上野公園 西郷銅像 上野公園 西郷銅像 
上野公園 西郷銅像 上野公園 西郷銅像 

西郷隆盛と銅像の由来

 西郷隆盛は文政十年(一八二七年)十二月七日薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること二回、元治元年(一八六四)に許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と図って薩長連合を結成し、慶応三年(一八六七年)十二月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は、故郷に退隠したが、明治四年(一八七一年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。然るに、明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上るや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、私学校を與して後進青年の育成に努めた。明治十年二月当局者の諜に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となりヽ転戦七ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。九月二十四日、享年五十一才。そのため゛一時逆賊とされたが、明治二十二年二月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志二万五千人の醵金を得て、明治二十六年起工、同三十年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の初産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。
上野公園 西郷銅像 上野公園 西郷銅像 
 上野公園 西郷銅像前のUENO3153(旧聚楽台)への入口 上野公園 西郷銅像前のUENO3153(旧聚楽台)への入口 

UENO3153はかつての聚楽台を閉鎖し、新たに建て直した飲食店ビルである。3153は言うまでもなく「西郷さん」である。
上野公園 西郷銅像から正面口へ 上野公園 西郷銅像から正面口へ 
上野公園 京成上野駅への階段 上野公園 京成上野駅への階段 
上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 上野駅 不忍口前 UENO3153(旧聚楽台) 

聚楽第ではなく、聚楽台である。
JR 山手線 上野駅 不忍口 JR 山手線 上野駅 不忍口 
東京メトロ 銀座線 上野駅 東京メトロ 銀座線 上野駅 



 
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