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円通寺 上野戦争遺構(彰義隊士墓、寛永寺 黒門)

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初春の日光街道 旧千住宿散策H270311((円通寺 上野戦争遺構(彰義隊士墓、寛永寺 黒門))


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日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 

慶応4年(1868)の上野戦争で戦死した彰義隊士らが葬られている。円通寺の住職が彼らの死を悼み弔ったことが縁で、上野寛永寺の黒門が境内に移設されている。黒門には当時の鉄砲の弾痕が生々しく残っている。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 

5年前にイベントで訪れた時はここに金銅子育地蔵尊や、円通寺の来歴などを記した大きな案内板があったが、撤去されていた。

金銅子育地蔵尊は、誘拐殺害された村越吉展ちゃんの遺体発見の因縁により鋳造された。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 

百観音 円通寺

 延暦十年(七九一)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになったという。
 江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政二年(一八五五)の大地震で倒壊した。            ‘
 境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(一二九六)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 境内 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 境内 

本堂に向かって左側に上野寛永寺の黒門と彰義隊士の墓がある。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 

上野戦争の激戦地として知られる上野寛永寺の黒門である。門には多数の銃痕があり、戦の激しさが伺われる。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 

黒門周辺はフェンスで厳重に保護されており、摩耗した案内柱の説明文を撮るのも難儀である。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 旧上野寛永寺の黒門 

 この黒門は、慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で、あとに放置されていた多数の彰義隊士の遺体を、当寺の円通寺佛磨和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎とが集めて火葬し、円通寺に葬った機縁で、明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より下賜された。「上野山内・袴越し」にあった黒門は、上野八門のうちで表門にあたり、両軍攻防の重要な拠点であった。弾痕が往時の激戦を今に伝えている。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 鷹見の松、四十八首塚、七重塔 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 鷹見の松、四十八首塚、七重塔 

三代将軍 家光
鷹見の松

義家が供養のため築いた
四十八首塚
小塚原地名の原因

基部四面に右の伝誦を刻す
七重塔
荒川区最古の文献
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 鷹見の松、四十八首塚、七重塔 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 鷹見の松、四十八首塚、七重塔 

本堂に対して右側にあり、上野寛永寺の黒門の向かいにある。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 板碑四基(永仁四年十月日銘他) 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 板碑四基(永仁四年十月日銘他)  

 円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中で中でも古い時代に属する。とりわけ永仁四年(一二九六)十月日銘は、日慶寺の正応二年(一二八九)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(一三二九)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 彰義隊士の墓 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 彰義隊士の墓 

多くの石碑が立ち並ぶが、上野戦争時の戦死者だけでなく、明治時代の没後に建てられた慰霊碑もある。有名人や大きな碑を中心に撮ったが、戦死者の碑は少なかった。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 彰義隊士の墓 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 彰義隊士の墓 

 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(大鳥圭介君追弔碑) 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(大鳥圭介君追弔碑) 

正二位勲一等男爵 大鳥圭介君追弔碑

大鳥圭介は歩兵奉行で、江戸開城と共に江戸を脱走、箱館戦争時には陸軍奉行であった
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(死節之墓) 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(死節之墓) 
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑)  日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑) 

永井尚志は外国奉行、軍艦奉行などを歴任、箱館奉行を経て新政府に降伏、元老院などに仕えた。永井岩之丞は永井尚志の養子である、
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑) 追弔碑 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑) 
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓から見た黒門 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓から見た黒門 
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(榎本公、高松凌雲君 追弔碑) 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(榎本公、高松凌雲君 追弔碑) 

正二位勲一等子爵榎本公は、箱館戦争時の蝦夷共和国総裁の榎本武揚で、高松凌雲は医師で箱館戦争時に函館病院を開院、赤十字運動の先駆者とされる。
 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(釈太郎左衛門君記念之松) 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓(釈太郎左衛門君記念之松) 

釈太郎左衛門が誰かは特定できなかった。太郎左衛門としては江川太郎左衛門が有名だが、数人おり、特定できなかった。
日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓 日光街道 史跡 円通寺 彰義隊士の墓 

さまざまな墓が立ち並んでいるが、大きく立派な墓は箱館戦争時に賊軍だった中枢部だらけである。
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 
日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 日光街道 史跡 上野彰義隊所縁の円通寺 

百観音 円通寺は東都の古刹にして

百観音円通寺は東都の古刹にて延暦十年(AD七九一年)坂上田村麿将軍により開創せらる。
本尊聖観世音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)。屋上聖観音像全長12m、原形一寸八分当寺蔵。高村光雲大正十二年作。
八幡太郎義家 奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、ここに埋め首塚四十八基を築いた、それから、この地を「小塚原」と呼ばれる。旧町名「通新町」は円通寺新町に由来する。
寛永三年三代将軍家光 放鷹の日、円通寺の松に止まる「鷹見の松」と名すけらる。
上野戦争(慶応四年五月十五日)彰義隊士の遺体二百六十六を上野で火葬し当寺に収骨した太政官の許可状に「懇ろに供養すべし」を口実に、大ぴらに賊軍の法要ができる当時日本唯一の寺であった。その因縁で旧上野黒門を帝室博物館より明治四十年十月当寺に下賜さる。



 
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