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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
隅田川に架けられた橋としては最も古く、最初の架橋は徳川家康入府4年後の文禄3年(1594年)である。現在の橋は昭和2年架橋の大橋と、昭和47年完成の二重橋構造で、大橋から上流は荒川、下流は隅田川となる。
写真の橋は下り専用の二車線道路で、上りは右の少し高い所を走る。 |
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日光街道 千住大橋南詰 八紘一宇の碑
今時千住大橋のような賑やかな場所に「八紘一宇」の碑が残っているのは珍しい。 首相にもなった林銑十郎の揮毫である。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
千住大橋
文禄三年(一五九四)徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。 架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二○○メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。 現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四○○年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
千住大橋
“千住大橋”は“千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄三年(一五九四)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。 当初は、ただ大橋と呼ばれていたが、 下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから“千住”の地名を付して呼ばれるようになった。 江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約百二十メートル)、幅四間(約七メートル)であった。 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、 三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところもここである。 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和二年(一九二七)に架けられ、近年の交通量の増大のため、 昭和四十八年(一九七三)新橋がそえられた。 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋 |
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日光街道 隅田川に架かる千住大橋
千住大橋の北詰の堤防に松尾芭蕉の奥の細道への旅立ち風景が描かれている。 |
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日光街道 千住大橋北詰
千住川を
大橋で
渡ると
千住の風が
吹いてくる
此処は
大千住の
木戸口
橋戸町
千住大賑会 河原 |
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日光街道 千住大橋北詰 千住浮世絵顕彰碑
冨嶽三十六景 「従千住花街眺望ノ不二」
千住浮世絵顕彰碑
葛飾北斎(1760−1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。冨嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。 |
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日光街道 千住大橋北詰 千住浮世絵顕彰碑 |
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日光街道 足立市場前交差点で右斜めの旧日光街道へ
旧日光街道の入口に足立市場入口があり、その左に千住宿奥の細道プチテラスがある。 |
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日光街道 足立市場前交差点で右斜めの旧日光街道へ
千住大橋北詰にある足立市場前交差点は三叉路で、左を進むと日光街道で京成本線の高架があり、高架の左に千住大橋駅がある。 |