茅場町〜八丁堀〜築地
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東京メトロ(旧営団) 日比谷線 茅場町駅 | |
八丁堀交差点で八重洲通りを渡る 「八重洲」の名前の由来になった「ヤン・ヨーステン」の名の居酒屋が手前にある。 |
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東京メトロ(旧営団) 日比谷線 八丁堀駅 | |
新大橋通りを歩き、鍛冶橋通りを渡る。 交差点名は無いが、右折し、最初の道が鈴らん通りで、その角に八丁堀の与力・同心組屋敷跡の案内板がある。 |
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八丁堀の与力・同心組屋敷跡 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。 |
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八丁堀の与力・同心組屋敷跡 | |
新大橋通り 入船橋交差点 | |
新大橋通り 入船橋交差点 交差点には有楽町線の新富町駅があり、交差点を左折、佃大橋に向う。 |
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最初の交差点を右折、築地川公園沿いを歩く 東和明石ビルの手前で右折する。 |
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築地川公園沿い 聖路加看護大学 | |
築地川公園沿い 聖路加看護大学 築地川公園沿いの聖路加看護大学正門の手前に芥川龍之介生誕の地碑と、写っていないが写真の左に浅野内匠頭邸跡の碑がある。 |
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築地江戸前案内図 中央の赤印は前の写真の聖路加看護大の看板に位置する。 |
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聖路加看護大学 芥川龍之介生誕の地碑 明治十六年(一八八三)ごろ、この付近に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(一八九二〜一九二七)は`明治二十五年三月一日`その経営者新原敬三の長男としてここに生まれました。 龍之介は誕生後七ヵ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町に移り、十二歳の時、芥川家の養子になりました。 |
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聖路加看護大学 浅野内匠頭邸跡の碑 芥川龍之介生誕の地碑の隣にある。 常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(一六ー○〜七二)は、正保二年(一六四五)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、五万三千五百石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して五万石となります。 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に而していました。 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(一六六五〜一七〇一)は、長友の子で、元禄十四年(一七〇一)、勅使の接待役に推されましたが、三月十四日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。 |
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聖路加看護大学 浅野内匠頭邸跡の碑 | |
聖路加看護大学正門から見た聖路加タワー 明石町の聖路加病院に隣接し、隅田川のシンボルともなっている。 |
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聖路加看護大学正門 日本近代文化事始の地 「慶応義塾発祥の地」」と、「蘭学の泉はここに」の二つの碑がある。 この地は中津藩奥平家下屋敷があったところである。藩医だった前野良沢らが集まり、オランダ語の解剖書を翻訳、解体新書を出した。慶応義塾の創始者である福沢諭吉も中津藩士だった。 |
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聖路加看護大学正門 日本近代文化事始の地 | |
聖路加看護大学正門 慶応義塾発祥の地 安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。 創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ |
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聖路加看護大学正門 慶応義塾発祥の地 有名な句が書かれている。 天は人の上に人を造らず 天は人の下に人を造らず |
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聖路加看護大学正門 蘭学の泉はここに 中津藩奥平家下屋敷があったところで、小浜藩医・杉田玄白は中津藩医・前野良沢とともにオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を3年かけて苦心の末翻訳し、明和8(1771)年に「解体新書」として刊行しました。 |
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築地本願寺 聖路加病院からかっての築地川沿いを歩き、築地本願寺の裏手に出る。 |
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東京メトロ(旧営団) 日比谷線 築地駅 |