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清杉通り 柳橋通り(薬研堀不動院参道) 清杉通り 柳橋通り(薬研堀不動院参道) 

神田祭の神幸祭で昼食休憩をとる両国旧御仮屋は、川崎大師の東京別院である。

この道を進み,、靖国通りを渡ると神田川が隅田川に注ぐ柳橋がある。
清杉通り 横山町繊維問屋街 清杉通り 横山町繊維問屋街 

清杉通りと清洲橋通りに囲まれた馬喰町、横山町は繊維問屋街である。
清杉通り 浅草橋交差点で靖国通りを渡る 清杉通り 浅草橋交差点で靖国通りを渡る 

この交差点は分かりにくく、横断地下道を使ったほうが安全、かつ楽である。
靖国通り 浅草橋交差点 横断地下道 靖国通り 浅草橋交差点 横断地下道 
靖国通り 浅草橋交差点 横断地下道 靖国通り 浅草橋交差点 横断地下道 

浅草橋交差点は浅草橋を頂点とし、靖国通りを底辺とする三角形の構造になっている。
江戸通り 浅草橋南詰 江戸通り 浅草橋南詰 

左から秋葉原の岩本町からくるかつての柳原土手の柳原通りが合流する。合流点に郡代屋敷跡の案内がある。
江戸通り 浅草橋南詰 郡代屋敷跡 江戸通り 浅草橋南詰 郡代屋敷跡 

 江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その邸宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
 寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
江戸通り 神田川に架かる浅草橋 江戸通り 神田川に架かる浅草橋 

屋形船が係留されている。
江戸通り 浅草橋北詰 旧町名由来案内 旧浅草橋 江戸通り 浅草橋北詰 旧町名由来案内 旧浅草橋 

江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ぱれたがいつしか「浅草橋」になった。
江戸通り 浅草橋北詰 浅草見附跡 江戸通り 浅草橋北詰 浅草見附跡 
江戸通り 浅草橋 人形問屋街 吉徳 江戸通り 浅草橋 人形問屋街 吉徳 

人形の吉徳など有名店が並ぶ。
江戸通り 浅草橋 人形問屋街 吉徳 江戸通り 浅草橋 人形問屋街 吉徳 

10月の下旬だが、、早々と来年の干支である巳が飾られている。隣には謂れは分からないが、「鬼っ子」と称する人形が飾られている。
都営 浅草線 浅草橋駅 都営 浅草線 浅草橋駅 
江戸通り JR 総武線 浅草橋 江戸通り JR 総武線 浅草橋 

駅の奥に浅草線の駅出入口がある。
江戸通り 浅草橋 デコレーション店 江戸通り 浅草橋 デコレーション店 

浅草橋界隈には何軒ものデコレーション専門店があり、ハローウィンやクリスマス用の飾りが売られている。
江戸通り 須賀神社 江戸通り 須賀神社 
江戸通り 浅草橋 デコレーション店 江戸通り 浅草橋 デコレーション店 
江戸通り 須賀橋交番前交差点 江戸通り 須賀橋交番前交差点 
江戸通り 蔵前一丁目交差点 史跡等案内 江戸通り 蔵前一丁目交差点 史跡等案内 

左が天文台跡、右が旧町名由来案内 旧浅草蔵前の案内板である。
江戸通り 蔵前一丁目交差点 天文台跡 江戸通り 蔵前一丁目交差点 天文台跡 

 この地点から西側、通りを一本隔てた区画には、江戸時代後期に幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(一七八二)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台か必要であった。
 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約九十三.六メートル、高さ約九.三メートルの築山の上に、約五.五メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料「政暦書」では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは九メートルだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測リ、緯度一分の長さを求めようとした。また至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(一八一一)、天文方内に「蛮書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保十三年(一八四二)九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
江戸通り 蔵前一丁目交差点 旧町名由来案内 旧浅草蔵前 江戸通り 蔵前一丁目交差点 旧町名由来案内 旧浅草蔵前 

 本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(一九三四)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(一六二一)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。
 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するため造られた倉庫で三ヶ所あった。大阪、京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地し造成された。当時、六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持だない旗本・御家人に支給する給料米であった。
江戸通り 蔵前一丁目交差点で蔵前橋通りを渡る 江戸通り 蔵前一丁目交差点で蔵前橋通りを渡る 
江戸通り 蔵前二丁目交差点で右折 江戸通り 蔵前二丁目交差点で右折 
江戸通り 蔵前二丁目交差点で右折 江戸通り 蔵前二丁目交差点で右折 

Y字路で、江戸通りは右折する。直進すると国際通りで、浅草ROXを経て三ノ輪に向かう。
江戸通り 蔵前二丁目交差点で右折 江戸通り 蔵前二丁目交差点で右折 
都営 浅草線 蔵前駅 都営 浅草線 蔵前駅 

名前は同じだが、大江戸線の蔵前駅は厩橋交差点の春日通り沿いにある。地上に出て春日通りを少し歩かなければならず、地図が描かれた案内が掲示されている。



 
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