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JR 京浜東北線・根岸線 赤羽駅(西口)
【撮影記録】
平成23年 12月 19日 晴れのち快晴
10:05〜13:40(昼食 15分) 20,000歩(概算 14.0km 地図上 13.4km)
京浜東北線・根岸線 赤羽〜上野
営業距離 9.6km 駅数 9
冬らしく8℃を切るほどで、歩き始めはもっと寒かった。赤羽の太田道灌の稲付城跡(静勝寺)、十条冨士塚、名主の滝公園、音無親水公園、飛鳥山公園、旧渋沢庭園と見所も多い区間であった。 |
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赤羽駅西口で左折、旧岩槻街道(都道460号)へ
西口を出て、イトーヨーカドーに向う。旧岩槻街道(都道460号)はぎりぎり片道1車線の狭い道路であるが、途中で拡幅工事が行われている。 |
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旧岩槻街道(都道460号) 右折して稲付城跡(静勝寺)へ
イトーヨーカ堂の前の道はそこそこに広いが、急に狭くなった旧岩槻街道(赤羽西口本通り)を南下してすぐにある。しかし、入口は狭い路地を入っていく感じで、案内板もなく、見落としてしまいがちである。 |
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稲付城跡(静勝寺) |
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稲付城跡(静勝寺) |
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稲付城跡(静勝寺)
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和六十二年(一九八七)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(一五五八〜一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのてす。
道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。 |
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稲付城跡(静勝寺) 道灌堂、本堂 |
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稲付城跡(静勝寺) 道灌堂
道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。 |
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稲付城跡(静勝寺) 道灌堂 木造太田道灌坐像
右手の道灌堂の厨子内には、太田道淮の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます、道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。
太田道灌(一四三二〜一四八六)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(一四五七)四月に江戸城を築いたことで知られています。
像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(一四七八)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は四四・五センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(一六九五)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、二回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(一九八七)四月に行われた修復によるものです。
像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(一九八九)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。 |
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稲付城跡(静勝寺) 本堂 |
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旧岩槻街道(都道460号) 稲付自治会館
右が現在の道で、左に拡幅工事中の道がある。完成すれば現在の倍以上の広い道となる。 |
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旧岩槻街道(都道460号) 埼京線高架下を進む |
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旧岩槻街道(都道460号) 北区特別老人養護ホーム 清水坂あじさい荘 |
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旧岩槻街道(都道460号) 清水坂
旧日光御成道散歩案内図で、左側の王子駅から、京浜東北線沿いに東十条駅、赤羽駅を経て赤羽岩淵駅に至る。 |
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旧岩槻街道(都道460号) 清水坂
日光御成道と将軍
日光御成道は、王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(白光)道中の街道として重要な道でした。特にこの道が五街道についで重要視されていたのは、将軍日光社参の時に将軍一行の通る御成街道であったためでした。将軍の日光社参というのは、将軍が4月17日の家康年回忌などに日光東照宮に参詣することですがその行列はとても華やかだったそうです。しかし、その費用は莫大なもので、一度社参すると幕府の財政を圧迫するほどでした。また、将軍日光社参の年にあたると道中筋では代官の陣頭指揮のもと、村民総動員の形で御用を勤めたため、これに対する沿道の名主や村人達の負担も大変なものでした。 |
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旧岩槻街道(都道460号) 清水坂 |
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旧岩槻街道(都道460号) 清水坂 若宮八幡神社 |
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旧岩槻街道(都道460号) 馬坂交差点で環状7号線を渡る |
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旧岩槻街道(都道460号) 馬坂交差点で環状7号線を渡る |
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旧岩槻街道(都道460号) 冨士神社(十条富士塚)
右は富士塚がある冨士神社で、左に荒川小学校があり、先に中十条二丁目歩道橋がある。 |
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旧岩槻街道(都道460号) 冨士神社(十条富士塚)
十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、參詣者は、頂上の石祠を參拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(一八四〇)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。 |
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旧岩槻街道(都道460号) 冨士神社(十条富士塚) |
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旧岩槻街道(都道460号) 冨士神社(十条富士塚) |
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旧岩槻街道(都道460号) 冨士神社(十条富士塚) |
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旧岩槻街道(都道460号) 中十条郵便局角で左折
東十条駅の案内はないが、右に駅前商店街のアーチがある。 |
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十条跨線橋を渡る |
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JR 京浜東北線・根岸線 東十条駅 |