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中野〜西荻窪散策(H16−02−28)


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新緑のいちょう並木の青梅街道を西北に進む 新緑のいちょう並木の青梅街道を西北に進む 

FC東京の幟が飾られているが、理由はわからない。FC東京の本拠地は調布市の味の素スタジアムであり、荻窪周辺に本拠地があったことはない。
新緑のいちょう並木の青梅街道を西北に進む 新緑のいちょう並木の青梅街道を西北に進む 
青梅街道 荻窪警察薯前交差点 青梅街道 荻窪警察薯前交差点 

交差点の少し西側、荻窪警察署の反対側に荻窪八幡神社がある。

1年半前に三鷹から千葉まで総武線沿線を歩いた時には、青梅街道の北側を歩いており、荻窪八幡神社は撮っていない。今回は南側を歩くこととした。
青梅街道 荻窪八幡神社 青梅街道 荻窪八幡神社 

 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約千八十年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。
 永承六年(一〇五一)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平五年(一〇六二)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。
 また文明九年(一四七七)四月、江戸城主太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、五〇〇年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。
青梅街道 荻窪八幡神社 青梅街道 荻窪八幡神社 
荻窪八幡神社 荻窪八幡神社 
荻窪八幡神社 彰忠碑 荻窪八幡神社 彰忠碑 

書は乃木希典であるが、他の碑同様「希典書」としか書かれていない。他の多くの碑では陸軍大将とか、伯爵などの位階勲等が書かれているのに珍しいことである。
荻窪八幡神社 荻窪八幡神社 
荻窪八幡神社 荻窪八幡神社 
荻窪八幡神社 道灌槇 荻窪八幡神社 道灌槇 

 関東管領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
 之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
 道灌は文明九年四月十三日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
 文明九年四月十六日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
 これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが、昭和九年の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢五百年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
荻窪八幡神社 道灌槇 荻窪八幡神社 道灌槇 
青梅街道 桃井三丁目交差点 青梅街道 桃井三丁目交差点 

交差点反対側の日産自動車敷地の角に「旧中島飛行機発動機発祥之地碑」がある。中島飛行機は戦後日産自動車などに解体された。
青梅街道 桃井四丁目交差点 青梅街道 桃井四丁目交差点 

交差点を左折、南下して善福寺川を渡るとJR西荻駅に至る。左折してすぐの西荻北五丁目交差点で右折すると杉並武蔵野線(都道113号)が始まり、東京女子大学前の女子大通りとなる。
青梅街道 善福寺一丁目交差点 青梅街道 善福寺一丁目交差点 

交差点のすぐ先に井草八幡宮がある。



 
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