|
JR 総武線 秋葉原駅
【撮影記録】
平成25年 4月 18日 晴れ
9:50〜13:00 19,600歩 (概算 13.7km 地図上 11.8km)
総武線 秋葉原駅〜錦糸町駅〜新小岩駅
営業距離 8.6km 駅数 7
地図上と歩数とからの距離の大きな違いは特に両国界隈や、亀戸天神での散策がシステムで細かく指定できなかったことに拠る。
当初は線路沿いの幹線道路を歩くことを考えていたが、現地に着くと回向院、吉良上野介旧跡、北斎通り、藤まつりの亀戸天神とあちこち巡ったため、当初予定の倍近くになってしまった。 |
|
秋葉原駅 中央口からワシントンホテル前で左折 |
|
ワシントンホテル前から見た秋葉原駅 中央口 |
|
突き当りで右折、昭和通りへ |
|
昭和通り 神田川に架かる和泉橋 |
|
昭和通り 神田川に架かる和泉橋
この橋を和泉橋といいます。「御府内備考」には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名としたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で、神田和泉町の町名が残っています。
神田川の南岸沿いには、柳を植えた土手が築かれていたので、この辺を柳原といい、橋の北側一帯を向柳原どいいましたが、明治初年ごろに、柳は枯れたり取除かれ、また関東大震災後の区画整理で、土手も平になりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが、明治二十五年(一八九二)に鉄橋となり、欄干の唐草模様の中に神田和泉の文字が崩し模様になっていました。
大正五年(一九一六)に鋼橋に架け替え、さらに昭和二年(一九二七)帝都復興事業の一環で拡張されました。長さ三五.八メートル、輻四四メートル、鋼橋。 |
|
昭和通り 神田川に架かる和泉橋 |
|
靖国通り 岩本町交差点 神田岩本町の神輿
3週間後に行われる神田祭の準備が各所で行われており、ビルの一画に地域の神輿が飾られている。 |
|
靖国通り 岩本町交差点 神田祭のポスター |
|
靖国通り 大和橋交差点 |
|
靖国通り 東神田交差点で清洲橋通りを渡る |
|
靖国通り 浅草橋交差点で左折、江戸通りへ |
|
靖国通り 浅草橋交差点で左折、江戸通りへ
靖国通りは浅草橋交差点から京葉道路(国道14号)となる。 |
|
江戸通り 浅草橋南交差点
左から秋葉原の岩本町からくるかつての柳原土手の柳原通りが合流する。合流点の浅草橋南詰に東日本橋交番があり、その前に郡代屋敷跡の案内板がある。 |
|
江戸通り 浅草橋南詰 郡代屋敷跡
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。 関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。 その邸宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。 寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。 |
|
江戸通り 神田川に架かる浅草橋を渡る
奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
南詰に関東郡代屋敷跡の案内があり、渡った北詰には浅草見附跡の碑がある。 |
|
江戸通り 浅草橋北詰 浅草見附跡 |
|
江戸通り 浅草橋 人形店街 吉徳
JR総武線の浅草橋駅界隈は有名な人形店が建ち並ぶ。浅草橋を渡ってすぐに吉徳があり、総武線のガードを過ぎると右手に秀月、久月がある。 |
|
江戸通り 浅草橋 人形店街 吉徳
3月のひな祭りや、5月のこどもの日以外は普通の人形を飾っている。 |
|
JR 総武線 浅草橋駅
駅の奥に都営浅草線の駅出入口がある。 |