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高松城(玉藻城)〜栗林公園〜金刀比羅宮H230816
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高松城(玉藻城)〜栗林公園・金刀比羅宮〜岡山
徳島駅から高松駅に着き、駅前の玉藻公園西門から高松城(玉藻城)に入り見物する。
瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだ高松城(玉藻城)は、日本の三大水城のひとつといわれている。二の丸跡の西門から入り、武櫓跡を過ぎると水門がある。内苑御庭前を通り過ぎ、月見櫓、渡櫓と進み、端の鹿櫓跡で引き返す。白壁の月見櫓、渡櫓は真夏の青空によく映える。
入口で早くも熱中症計は警戒となる内苑御庭に入り、昭和天皇・皇后御手植松や披雲閣を見る。披雲閣は藩の政庁及び藩主の住居として使われていたが、明治5年に老朽化で取り壊された。松平家第12代当主の松平頼寿が大正6年に再建、昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になったこともある。桜御門跡から桜の馬場、石垣解体修理工事中の天守台と経て、廉櫓跡の西門から出る。
西門横の琴電高松築港駅から琴電に乗り、栗林公園駅で下車、10分歩いて栗林公園を散策する(別ページに整理)。琴電に再び乗り、小1時間後に琴電琴平駅に着く。有名な階段を上り、金刀比羅宮を参拝後(別ページに整理)、JR琴平駅から各停に乗り岡山駅に向かう。瀬戸大橋線で瀬戸大橋に乗ってすぐに坂出の工業地帯が見え、少し経つと瀬戸内海が見え出す。
栗林公園散策
栗林公園は、寛永年間(1625年頃)当時の讃岐領主生駒高俊公が紫雲山を背景に南湖一帯を造園し、更に寛永19年(1642年)に入封した高松藩主松平頼重公(水戸光圀公の兄)に引き継がれる。以来5代頼恭公に至る100年余の間、歴代藩主が修築を重ねて延亨2年(1745年)完成した。
藩士たちの通用門であった東門(切手御門)栗林公園に入り、紫雲山に向かって歩き、商工奨励館を過ぎ、秩父宮殿下(大正3年)、高松宮殿下(大正3年)など5人のお手植松で左折する。鶴亀松(別名 百石松)を過ぎると
北湖で、根上り樫などを見つつ北湖を巡り、朱色が鮮やかな梅林橋に至る。
北湖沿いを歩き、ぼたん石と見返り獅子、講武?と過ぎ、涵翠池の前の掬月亭に着く。江戸初期の頃(1640年頃)に建てられた回遊式大名庭園の中心的建物であり、歴代藩主が大茶屋と呼び最も愛用した建物である。松平5代藩主頼恭が、中国の詩人于良史の詩の一句「水を掬すれば月手にあり」からとって掬月亭と命名したものである。南湖に向かい、大正天皇お手植松を経て、南湖を巡り、偃月橋を渡って桜の馬場から東門出口に至る。
金刀比羅宮
琴電 琴平駅から参道を歩き、金倉川に架かる工事中の大宮橋を渡って突き当りを左折、銘菓灸まん、かまどなどを売る商店街を進む。右折して表参道へ入り、手打ちうどんのてんてこ舞の前に金陵の郷がある。金陵は万治元年(1658年)に阿波藍商として始まり、安永8年(1779年)に酒造を始めた。寛政元年(1789年)に琴平でも酒造を始め、以来金刀比羅宮の神酒は金陵となった。
表参道商店街を進み、こんぴら算額茶屋を経て、大門(365段)まで上り5,300円の階段前の名物かごやに着く。ここから有名な金刀比羅宮の階段が始まるが、土産物店で竹杖を貸し出している。大門からは金刀比羅宮の境内で、特に許された五人百姓が加美代飴を売っている。境内の階段は表参道ほど急ではないが、それでもかなりの坂である。今治造船株式会社が奉納した直径六メートル、重量十九.二トンの奉納プロペラに至る。
金刀比羅宮は凡そ三千年前に鎮座、祭神は大物主神、崇徳上皇を合祀している。境内を進み、資生堂パーラーの神椿まで来た時点で、帰りの時間の関係で引き返さざるを得なかった。初めての真夏の参拝で休憩が多く、体力を消耗したことによる。帰りは楽に階段を下り、琴電琴平駅で休んだ後、JR 琴平駅に向かう。
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