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日比谷線 南千住駅
南千住駅〜小塚原回向院〜延命寺〜吉野通り(南千住駅前歩道橋〜泪橋交差点)〜寶珠稲荷神社〜玉姫稲荷神社(靴のめぐみ祭りH291125)〜アサヒ会商店街〜日の出会商店街〜吉原大門交差点〜吉原仲之町通り〜吉原神社〜新吉原弁天池跡〜鷲神社〜日本堤一丁目交差点〜土手通り〜いろは会商店街(あしたのジョー)〜日本堤交番〜三ノ輪駅
【撮影記録】
平成29年 11月 25日 快晴
11:15〜13:35(昼食 20分) 8,400歩(概算 5.5km、地図上 4.7km)
偶然11月の最終土、日曜に山谷の玉姫稲荷神社で靴のめぐみ祭りが開催されることを知り、山谷と吉原散策を思い立った。
6年前のJRのイベントで玉姫稲荷神社を訪れた時は、参加者3000人にもかかわらず、昼間から大音量のカラオケスナックや、路上飲酒の労務者で異様な感じを受けた。今回はそのような姿はなく、日本堤交番付近で路上飲酒や寝転がっている数人を見ただけだった。イベントの関係者が環境整備に努めたことなどが理由かもしれない。 |
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南千住駅前で吉野通りを渡り、小塚原回向院へ
南千住駅の南口を出ると日比谷線の高架の向かいに小塚原処刑場跡の延命寺が見える。吉野通りは日比谷線やJRの貨物線、常磐線などの高架や線路があるので地下道になっている。 |
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吉野通り 小塚原 回向院
延命寺前の吉野通りを北上、常磐線の高架下を歩くと回向院に出る。
東京メトロ(旧営団)日比谷線南口の吉野通り反対側に小塚原回向院、小塚原処刑場跡がある。小塚原回向院は両国の回向院が手狭になったために建てられたもので、常磐線建設により南北に分けられ、刑場跡は線路脇に首切地蔵がある延命寺となっている。 |
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吉野通り 小塚原 回向院
回向院は、寛文七年(一六六七)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。 明和八年(一七七一)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 吉展地蔵尊
昭和38年に誘拐、殺害された男児(村越吉展)の慰霊の地蔵尊で、吉野通り沿いの正門左に設置されている。
都電三ノ輪橋駅近くの日光街道沿いに史跡上野彰義隊所縁の円通寺がある。ここにある金銅子育地蔵尊は、誘拐殺害された村越吉展ちゃんの遺棄された遺体発見の因縁により鋳造された。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 観臓記念碑 |
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吉野通り 小塚原 回向院 観臓記念碑
回向院に入ってすぐ右の壁に貼られている。
「蘭学を生んだ解体の記念に」 一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。 それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発奮してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきつかけとなった。 さきに一九二二年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 観臓記念碑
道路拡張のためあたらしく設計された本堂の落慶式が今月十日におこなわれた その機会に この場所を解体記念碑のために提供されたので よそおいをあらたにしてここに移し 今日序幕の式をあげた それは解体新書の出版から二百年にあたる年にできたことになる
一九七四年・昭和四十九年十月二十六日
解体新書出版二百年記念の年
日本医史学会
日本医学会
日本医師会 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所)
14年近く前(平成16年2月)に初めて小塚原回向院を訪れた時はこの様に整備されていなかった。本堂の左手の雑然とした区画に墓が並べられていた。今は一般墓地と区分けされ、どこに誰の墓があるかの案内も分かりやすい。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所)
小塚原の刑場跡
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人などの無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本佐内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 2.26事件 磯部浅一元一等主計夫妻の墓
入口左にさりげなく設けられている墓で、名前を見たら2.26事件で処刑された磯部浅一元一等主計夫妻の墓だった。磯部浅一の吉田松陰の墓の近くで、という希望で設けられてという。
2.26事件も約80年前の事件であり、「史跡参拝所」に移されたのか、との感慨もある。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 相馬大作供養碑
相馬大作(本名 下斗米秀之進)は南部藩士で、文政4年(1821)に歴史的に敵対する津軽藩主の暗殺に失敗、獄門に処された。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉の墓
右から腕の喜三郎、最後の処刑者の高橋お伝、片岡直三郎(直侍)、鼠小僧次郎吉である。 腕の喜三郎は、罪人ではなく、怪我した腕を鋸で切り落とした任侠である。ねずみ小僧の墓は両国回向院にもあり、どちらが正しいのかは知らない。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 摩滅が激しい石碑
腕の喜三郎などの墓の前にある石碑であるが、摩滅が激しく全く読めない。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 橋本左内の墓
史跡参拝所の右突き当りにあり、左に吉田松陰の墓がある。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 橋本景岳(左内)君碑
橋本左内の墓の手前右にある碑で、上部の大きな字の橋本景岳君碑だけしか読めない。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 吉田松陰の墓
史跡参拝所の左突き当りにあり、右に頼三樹三郎の墓がある。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所)
吉田松陰の墓の前に並んでいるが、名前を見ても誰だか分からない。 |
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吉野通り 小塚原 回向院 霊園(史跡参拝所) 2.26事件 磯部浅一元一等主計夫妻の墓
入口左にさりげなく設けられている2.26事件で処刑された磯部浅一元一等主計夫妻の墓である。
浅一
昭和十二年八月十九日歿
行年 三十三歳
登美子
昭和十六年三月十三日歿
行年 二十八歳
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吉野通り 常磐線の高架下を南下 |
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吉野通り 日比谷線の高架手前で右折
南千住駅前歩道橋手前で右折し、小塚原処刑場跡(延命寺) に入る。 |
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吉野通り 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) |
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吉野通り 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺)
小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵
小塚原刑場は、火罪、磔・獄門などの刑罰、無緑の埋葬、供養、刀の試し切り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。 首切地蔵は、寛保元年(一七四一)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。 明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。 |
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吉野通り 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 題目塔、首切地蔵
江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。 小塚原の刑場は、間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(一七四一)に造立されたものである。 |
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吉野通り 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 題目塔
元禄十一年(一六九八)二月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場など一〇〇基以上が確認されている。
十九世紀前半には地中に埋もれていたが、慶応三年(一八六七)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵(区指定有形文化財)と並んで安置された。明治二十九年(一八九六)、土浦線、隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。 |
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吉野通り 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 題目塔 |
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吉野通り 南千住 小塚原処刑場跡(延命寺) 首切地蔵
東日本大震災で損傷し、復旧工事が行われていたが、その経緯も書かれている。
寛保元年(一七四一)に造立された延命地蔵菩薩。花崗岩製。台座に「願主 東都 浄心」、「大坂西横堀住 石工 中村屋半六」、施主名の他、「奉納経 天下泰平 国土安穏」とあり、法華経の納経が行われたことが窺える。刑死者や行倒人等の無縁供養のため造られたといわれ、日光道中沿いにあったため、江戸に出入りする多くの人が、この地蔵の前で手を合わせたという。明治二十九年(一(九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。平成二十三年三月十一日、東日本大震災で被災して、解体されていたが、荒川区及び公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団の補助を始め、多くの方々の支援を受け、同二十四年修復工事が完了した。 |