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吉野通り 南千住駅前歩道橋を渡る
歩道橋は延命寺側から自転車用のスロープが、写真奥にある日比谷線南千住駅南口から階段が作られている。 |
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吉野通り 南千住駅前歩道橋を渡る |
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吉野通り 南千住駅前歩道橋から見たJR隅田川駅
歩道橋の左(東側)にJR貨物、JR東の隅田川駅がある。多くの線路は隅田川貨物線である。これらの施設があるため、吉野通りは地下道でこの区間を結んでおり、人は歩道橋を通る。 |
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吉野通り 南千住駅前歩道橋を渡る
正面に東京スカイツリーが見える。
いつもは人の往来が殆ど無い歩道橋であり、日比谷線の南千住駅であるが、山谷の玉姫稲荷神社で行われる靴のめぐみ祭りのせいで多くの人が南に向かう。 |
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吉野通り 南千住駅前歩道橋より南部の案内図
中央やや右上の赤印が現在地で、そこから真っ直ぐ吉野通りが南下する。中央左端の三叉路から真横に向かう道路は明治通りで、吉野通りと泪橋交差点で交差する。 |
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吉野通りを南下 南千住二・三丁目交差点
この交差点で右折し直進すると投込寺で有名な浄閑寺に出る。 |
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吉野通りを南下 泪橋交差点で明治通りを渡る
明治通りの北側に思川が流れていたが、思川と小塚原縄手(日光道中)が交差する所に架かっていた橋が涙橋。泪橋とも書く。橋名の由来は小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しがら渡ったからとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝える。 |
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吉野通りを南下 泪橋交差点で明治通りを渡る
思川は南千住三丁目の東南部にあった堀。農業用水として使われていた音無川(石神井川用水)の支流で、明治通り北側に沿って流れ、橋場の渡しの北で隅田川に合流していた。源頼朝がこの川で馬を洗ったことから、古くは駒洗川と呼ばれていたという。文明十八年(一四八六)京都聖護院門跡の道興准后が思川を訪れ、「うき旅の道になかるゝ思ひ川涙の袖や水のみなかみ」(『廻國雑記』)と詠んだ。 思川と小塚原縄手(日光道中)が交差する所に架かっていた橋が涙橋。泪橋とも書く。橋名の由来は小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しがら渡ったからとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝える。 |
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吉野通りを南下
右奥の白い建物は浅草署日本堤交番で、現在地に移転前は山谷地区交番と言われ、山谷暴動時のマンモス交番の愛称で知られていた。 |
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吉野通りを南下、コンビニ ポプラ手前で左折
少し先の交差点は東浅草二丁目交差点であるが、左折する目標はコンビニ ポプラ清川店だけであり、見逃す恐れがある。
6年前のJRのイベントでここで左折して山谷の玉姫稲荷神社に行ったが、その時の雰囲気は次のように書かれている。
泪橋界隈は大阪の釜ヶ崎と並んで、東京の山谷と呼ばれた時代がある。いずれもドヤ街として知られ、今は地名としては無くなっている。 しかし、昼前から立ち飲み屋は大繁盛し、薄いドアから大音量のカラオケが鳴り響く。数人で道端で缶ビールを飲む風景も見られ、1泊1,700円でTV付き、自炊も可というボール紙の看板も掲げられており、やはり異様な雰囲気の街である。 |
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玉姫稲荷神社へ東進 寶珠稲荷神社
寶珠稲荷神社社歴
一、祭神 倉稲魂命
浅草寺志によると、文化十癸酉年頃(一八一三)の當神社の御神躰は「大日命」とありますが、明治維新政府の神仏分離政策によって、現祭神に合祀されたものと拝察されます。
奥の院には京都伏見稲荷大社よりの當祭神の御使として勧請した「白狐稲荷」をお祀りしております。
京都伏見稲荷大社の稲荷山に「寳珠稲荷大善神」の石神を御祀りいたしております。
一、例祭 初午祭 二月十一日執行
一、功徳 火伏、商売繁昌
一、祭禮 町が浅草神社(三社)の氏子であるので、三社祭禮と同時に行っております。
一、宮司 浅草神社(三社)宮司が兼務しております。
一、由緒 旧社格 無社格、明治六年 列格
昭和二十一年 六月 終戦後G.H.Qの要請により「神社の社歴」を申請。
昭和二十八年十二月 宗教法人成立、登記
昭和四十一年 七月神社本庁の承認を得て、「寶珠稲荷神社」と社名を変更
起源は省略
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玉姫稲荷神社へ東進 寶珠稲荷神社 |
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玉姫稲荷神社へ東進 格安のホテル |
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玉姫稲荷神社へ東進 格安のホテル
いわゆるドヤ街に相当すると思われるが、外観は旅館である。
内部は窺い知ることは出来ないが、「全室冷暖房完備」で宿泊料金が2,300円である。1ヶ月いると7万円ほどになるが、短期間ならば驚くべき安さで、海外のバックパッカーに人気なのも理解できる。 |
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玉姫稲荷神社へ東進 玉姫稲荷神社前の車列
玉姫稲荷神社で開催されている靴のめぐみ祭りに出店する業者の車が並ぶ。 |