|
新大橋通り 銀杏八幡宮 銀杏稲荷
御創建は不詳、大正12年(1923)9月の関東大震災で社殿が焼失する。御祭神を社殿にお祀りしたのは安永4年(1775)9月27日だが、当時境内には天空を覆ううっそうとそびえたつ大銀杏があり、その樹齢は300-400年と見られていたことから、御創立はそれ以前と考えられます。
本宮は、旧福井藩常盤橋松平氏の御屋敷の鎮守として祀られ、松平家はもとより家臣の崇敬を集め、武運長久・家運繁栄を祈願された。その霊験、日々あらたかにより各々ご守護あらせられ、明治維新廃藩置県を迎えた。
その後、いつとはなく松平家の領地に住む蛎殻町民の熱烈なる信仰により、郷土の氏神様となり、年々敬虔なる真心をもって祭祀を守り終戦となる。 戦後に祀職森田耕造、宗教法人令に基づいて宮委員会の決議をもって神道大教院所属「銀杏八幡宮」を設立、昭和21年12月15日更に宗教法人法による東京都知事より認証を得て現在に至った。
八幡宮を祀る神社は中央区で本宮が唯一の存在である。
尚、境内社の銀杏稲荷神社の創立は本宮創立の以前と思われる。
明治になって、文豪谷崎潤一郎は銀杏八幡のお神楽が月に一度の楽しみだったと「幼少の時代」で書いている。 |
|
新大橋通り 水天宮前交差点で右折、水天宮通りへ
水天宮は緑青の屋根が美しい社殿であったが、江戸鎮座200年(平成30年)記念事業として平成25年3月に仮宮に移転、社殿と参集殿の御造替が行われ、3年前の平成28年4月に白木造りの新社殿が竣工した。いつ来ても工事中で足が遠のいていたが、久しぶりに参拝することとした。 |
|
新大橋通り 水天宮前交差点で右折、水天宮通りへ
白木造りであるが、地震の時には建物が水平方向に揺れる免震構造となっている。 |
|
水天宮通り 建物の中の階段を上って社殿に向かう
水天宮と言えば妊婦にはきついのでは、と思われる階段を上っていたが、どこにも石段がなく、建物の中の階段を上り、途中で左に折れ曲がる緩やかな階段になっていた。 |
|
水天宮通り 水天宮 白木造りの社殿、ガラス張りの参集殿
社殿の白木造りにも雰囲気が違うと思ったが、右の総ガラス張りの参集殿は狭い境内に相応しくないほどゆったりとした建物である。 |
|
水天宮通り 水天宮 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は10:20で、温度18.1℃、湿度38%、熱中症計はほぼ安全である。
浅草線の日本橋駅を出たのは9:55で、ビルの日陰の昭和通りということもあって少し薄ら寒かったが、歩いて体が温まったことや日向で思いの外温度が高い。 |
|
水天宮通り 水天宮 階段に掲示されている御由緒
階段の途中にさりげなく御由緒が掲示されていた。不勉強だったが、安徳天皇、建礼門院、二位の尼が御祭神とは知らなかった。
御由緒
御祭神 天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
安徳天皇 第八十一代
建礼門院 高倉天皇の中宮 安徳天皇の母君 御名 徳子
二位の尼 平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母
当社は文政元年(1818)港区赤羽にあった有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮は今からおよそ700年程前に創建されたと伝えられております。彼の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ち延び、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。
江戸時代の水天宮は藩邸内にあった為、庶民は普段参拝できず、門外より賽銭を投げ参拝したといいます。ただし毎年5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が解放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まりました。その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。
明治維新により藩邸が没収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年11月1日、現在の蛎殻町に御鎮座致しました。
関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる新大橋に避難し難を逃れました。その後御復興も相成り、昭和5年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年現在の権現造りの社殿となりました。( |
|
水天宮通り 水天宮前交差点で新大橋通りを横断、人形町通りへ
この交差点を境に、水天宮側は水天宮通り、過ぎると人形町通りとなる。
交差点を渡った右角に人形焼の重盛永信堂があり、買い物客で賑わっている。 |
|
人形町通りを北上 人形町の由来 |
|
人形町通りを北上 人形町の由来
人形町の由来
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。 |
|
人形町通りを北上 枯木寸前のケヤキ |
|
人形町通りを北上 水天宮案内
水天宮
江戸時代は芝・赤羽橋の有馬藩邸内に在りましたが、明治になって藩邸が新政府に没収され、明治4年8月、赤坂に移り明治5年に、この地に移り同時に水天宮も移ってきました。明治11年5月、官許を得て以来、現在でも「水天宮さん」と呼ばれて親しまれ、特に安産を願う人遠でにぎわっております。 |
|
人形町通りを北上 人形町からくり櫓
からくり櫓 江戸落語
下段の緞帳(どんちょう)が開くと噺家(はなしか)の人形が登場。落語家 立川談幸氏による創作小咄(こばなし)「人形町の由来」が流れます。
上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分
平成21年11月完成 |
|
人形町通りを北上 人形町からくり櫓 |
|
人形町通りを北上 甘酒横丁交差点で右折、 甘酒横丁へ
日比谷線の人形町駅は親子丼で有名な「玉ひで」の横にあり、甘酒横丁交差点である。人形町通りを渡り、甘酒横丁を東進すると清洲橋通りの明治座前に出る。 |
|
人形町通りを北上 甘酒横丁交差点で右折、 甘酒横丁へ |
|
人形町通りを北上 甘酒横丁交差点で右折、 甘酒横丁へ
明治の初め頃にこの横丁の入口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は「甘酒屋横丁」と呼ばれていた。当時の横丁は今より南に位置しており、道幅も狭い小路であった。
甘酒横丁と言っても特に変わった商店街ではなく、清洲橋通りから入ると始めは明治座通りとも言う。 |
|
甘酒横丁を東進 |
|
甘酒横丁を東進 |
|
甘酒横丁を東進 浜町緑道と交差 |
|
甘酒横丁を東進 浜町緑道と交差 勧進帳の弁慶像 |
|
甘酒横丁を東進 浜町緑道と交差 勧進帳の弁慶像
意図的とは思うが、黒地のため読解は難航を極めた。
弁慶像について
今を遡ること三五〇年前、現在の人形町あたりに葺屋町と堺町という街があった。
当時この街では、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。また、浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数軒あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。
ここで使われた人形の製作と、修理に当たった人形師達はこの周辺に住み人形細工と人形の販売をも業としていた。
以上が人形町の名のいわれとされており、ここ人形町界隈は、今日隆盛をきわめる江戸歌舞伎発祥の地と呼んでも差し仕えないといえる。
この度、緑道の改修に当たって、入口の広場に歌舞伎十八番の内でも人気のある勧進帳の武蔵坊弁慶像を設置するとともに、その背面に関所風の冠木門を設けて江戸情緒をかもしだし、往時をしのばんとするものである。 |
|
甘酒横丁を東進 浜町緑道と交差
枯木寸前のイチョウとケヤキが歳末の風景に相応しい。
この交差点から明治座通りとなり、すぐ先に浜町公園前交差点、明治座が見える。 |
|
明治座通り 浜町公園前交差点で左折、清洲橋通りを北上 |
|
明治座通り 浜町公園前交差点で左折、清洲橋通りを北上 明治座
垂れ幕がかかっており、1月は三山ひろし、2月は川中美幸の特別公演がある。 |
|
明治座通り 浜町公園前交差点で左折、清洲橋通りを北上 |