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JR 日暮里駅 旧駅舎西口脇の階段を上り谷中霊園へ |
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JR 日暮里駅 旧駅舎西口脇の階段を上り谷中霊園へ |
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谷中霊園 桜並木を南下
4月に来ると霊園の中の小道は満開の桜並木である。 |
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谷中霊園 桜並木の突き当りで左折 |
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谷中霊園 案内図
右が北の地図で、現在地は右の小ブロックと左の緑ブロックとの境目の赤印である。境目の左に天王寺があり、十字の灰色の線は霊園内の幹線道路で左右がさくら通り、上下がぎんなん通りである。十字の交差点に幸田露伴の名作「五重塔」のモデルとなった天王寺の五重塔の遺構があり、交番がある。 |
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谷中霊園 旧町名由来 旧谷中天王寺町
本町は江戸時代には、その大部分が天王寺の寺域であった。天王寺は鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀の草創にかかるといわれ、もとは長耀山感応寺と号した。のち元禄十一年(一六九八)、幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保四年(一八三三)には、寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地の谷中霊園となった。 本町の起立年代は、谷中各町の中では新しく、明治二十四年(一八九一)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され、谷中天王寺町と命名された。町名はいうまでもなく、天王寺に由来している。 昭和四十二年(一九六七)の住居表示の実施で全域台東区谷中七丁目になった。 |
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谷中霊園 護国山天王寺
日暮里駅からの桜並木の突き当りを左折し、さらにその突き当りに天王寺がある。 |
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谷中霊園 護国山天王寺
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長燿に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺ご改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。
元々日蓮宗の不受不施派であったため弾圧を受け、廃寺になるところを輪王寺宮のとりなしにより元禄12年に天台宗となった。のちに家斉の側室お美代の方一派により日蓮宗改宗の動きがあり、天保4年に寺号を天王寺とした。 |
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谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像
本像については、「武江年表」元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。「江戸名所図会」(天保七年(一八三六)刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。 本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。 |
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谷中霊園 護国山天王寺 銅造釈迦如来坐像 |
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谷中霊園 護国山天王寺 沙羅双樹
本堂前に沙羅双樹との石碑があり、小さな白い花が咲いている。しかし、これが平家物語で有名な沙羅双樹か、ということについてはWebでは諸説あるようである。 |
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谷中霊園 護国山天王寺
日蓮聖人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。−伝承による天王寺草創の起源である 一般には、室町時代、応永(一三九四―一四二七)頃の創建という。
『東京府志料』は「天王寺 護国山卜号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺卜号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで“富くじ”興行が開催された。日黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄十二年(一六九九)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(一八三三)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和三十二年七月六日、惜しくも焼火してしまった。 |
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谷中霊園 護国山天王寺 |
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谷中霊園 さくら通りを南下
天王寺を出ると、道は広くなり、桜並木で有名なさくら通りと称される。 |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡
最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。 罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅悸造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月九日放火により消失した。 |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺五重塔跡 |
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谷中霊園 さくら通り 天王寺駐在所
谷中霊園の南北を通るさくら通りと、東西を結ぶぎんなん通りとの交差点に交番があり、隣接して天王寺五重塔の遺構がある。 |