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        東京メトロ 日比谷線 三ノ輪駅   
                 
                三ノ輪駅〜浄閑寺(投込寺)〜南千住駅〜小塚原(首切り地蔵〜回向院)〜日光街道〜円通寺 上野戦争遺構〜日光街道〜素盞雄神社〜千住大橋〜旧千住宿散策(旧日光街道 旧千住宿(足立市場前交差点〜元やっちゃ場〜千住仲町交差点〜源長寺〜問屋場・貫目改所跡〜ほんちょう商店街〜宿場町通り〜横山家住宅〜千住名倉医院)〜日光街道〜きたろーど1010〜北千住駅 
                             【撮影記録】 
                平成27年 3月 11日 晴れ 
                11:05〜13:15 11,000歩(概算 7.7km 地図上の距離 6.1km) 
                 
                だんだん春めいてきたのでリハビリを兼ねて歩いた。腰痛は対策をしていたこともあり大きな問題はなかったが、運動不足の付けで終わりの方では筋肉痛が出ていた。 
                コースとしては意外と近いのに今まで円通寺を外していたのが地図で初めて知った。円通寺は浄閑寺ほどではないが三ノ輪駅に近く、小塚原は南千住駅前なので今後のコース設定の役に立ちそうである。 | 
      
      
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        三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ   
                 写真左側は昭和通りで、この交差点で日光街道となる。この交差点で明治通りと交差する。 | 
      
      
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        三ノ輪駅から大関横丁で右折、日光街道へ   | 
      
      
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        日光街道 大関横丁の次の小路を右折   
                 
                大関横丁交差点のすぐ先で右折するとすぐ左手に投込寺(浄閑寺)の白塀が見える。日光街道の少し先には常磐線の鉄橋が見える。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺)   
                 
                浄閑寺(投込寺)の白塀に掲げられている。 
                             音無川と日本堤 
                              音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輸橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで濯漑用水として使われていた。              音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺)   | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺)   
                 
                浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。              檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(一七四三)から大正十五年(一九二六)にいたる、十冊の過去帳が現存する。              遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 本堂   | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園入口   
                 
                本堂の左にある門の前には浄閑寺史蹟の案内板がある。 
                 多くの史蹟が列記されているが、どこにあるのかの案内がないため、 新吉原総霊塔などすぐ分かるものを撮った。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 本堂沿いに北上   
                 
                いつもは木々が鬱蒼としており、薄暗くてジメジメした雰囲気の霊園だが、冬のため枯れ木になっていたり木々を伐採したため明るい信じ難い雰囲気になっていた。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 新吉原総霊塔   
                 
                本堂沿いの道を歩いて突き当たり手前で右折すると、一際高く大きい新吉原総霊塔が見える。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 新吉原総霊塔   
                 有名な川柳である。 
                             花又花酔の川柳 
                             「生まれては苦界、死しては浄閑寺」 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 永井荷風文学碑   
                 
                本堂の裏で、新吉原総霊塔の斜め向かいにある文学碑である。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 永井荷風文学碑   
                 
                明治、大正、昭和三代にわたり詩人・小説家・文明評論家として荷風永井壯吉が日本藝林に遺した業績は個人歿後益々光を加へその高風亦やうやく弘く世人の仰ぐところ
                となった。谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩四十二人故人追慕の情に堪えず故人が生前「娼妓の墓亂れ倒れ」 ( 故人の昭和十二年六月二十二日の日記中の言葉
                ) てゐるのを悦んで瘻々、杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた。 | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 ひまわり地蔵尊   | 
      
      
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        三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 霊園 ひまわり地蔵尊   
                 
                永井荷風文学碑の横にあるが、文学碑が大きいため見落とす可能性が高い。 
                 
                 山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとリ淋しく人生を終る人が数多くいます。山谷老友会は、孤独の壁をこえて連帯し、はげましあい、またささえあってきましたが、死後の安心なしには、真の生活の安らぎがないところから、ひまわり地蔵尊の建立を思いたちました。ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえます。 | 
      
      
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        浄閑寺(投込寺)前の道を東進   
                 
                左側(北側)には常磐線が走り、右側(南側)には明治通りが平行している。 | 
      
      
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        突き当りの南千住二丁目交差点で左折、吉野通りへ   
                 
                吉野通りはかつての日光街道である。 | 
      
      
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        吉野通りを北上   
                 
                南千住二丁目交差点の少し先にある地下道で常磐線の下を潜り抜ける。 | 
      
      
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        吉野通り 常磐線の跨線橋である南千住駅前歩道橋を渡る   | 
      
      
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        南千住駅前歩道橋から見える東京スカイツリー   | 
      
      
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        吉野通り 日比谷線南千住駅手前で歩道橋を降りる   
                 
                右後方に東京メトロ日比谷線の南千住駅のホームが見え、右側の階段を下りて南千住駅に向かう。小塚原処刑場跡(延命寺)は左手前の階段を下りる。 | 
      
      
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        吉野通り 日比谷線 南千住駅   |