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尾久橋通り 竹台高校前交差点で右折、駐車場脇の小路へ |
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ねぎし三平堂
ねぎし三平堂は、先代林家三平の口癖である「ど(土)ーもすい(水)ません」に因み、開館日は毎週の水、土と、日曜日である。
入館料は600円で、先代林家三平所縁の品々の展示がなされている。 |
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ねぎし三平堂の隣のマンションで左折
前回子規庵を探した時は、まさか「ねぎし三平堂」の隣のマンションの角を曲がるとは思わず、先を探して分からなかった。 |
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次の角を左折
さらに次の角を曲がるが、案内表示もなく、迷う。道の左手先に書道博物館らしき立派な建物があるので、曲がることを決断する。 |
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根岸子規会 案内
根岸子規会の案内が子規庵隣の民家の壁に掲示されている。 |
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根岸子規会 案内
例によって古図のため役に立たない。 |
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根岸子規会 案内
子規生存当時、ここ鈴木家の土地は明地でした。加賀屋敷の黒板塀はここで折れ曲がり、この明地との境を子規庵の庭の方に続いていました。しかしこの明地も上根岸八十二番地で前田家の所有地でした。この明地をはさんで反対側に陸羯南の家があり、現状を見ていただいてわかるように、陸邸の方がかなり低く、この明地は傾斜地になっていました。
子規の随筆「小園の記」の中の「小園の図」には、子規庵の庭の西側にある塀の外にこの俳句「椎の実を拾ひに来るや隣の子」が書かれています。子規庵の椎の木からこの明地にこぼれた実を、陸家の子供達が楽しそうにしゃべりながら拾っています。八畳の縁側で子規はそれを聞いているのでしょうか。 |
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根岸子規庵
子規没後から数えても100年以上経ており、古びているとは言え、新しい感じがする建物である。その理由はブロック塀に掲示されている案内で分かった。戦災にあって焼けたため、60年前の昭和25年に再建されたものである。 |
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根岸子規庵
正岡子規(一八六七〜一九〇二)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升、本名は常規、別号を獺祭書屋屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には、俳論『俳諧大要』『俳人蕪村』、歌論『歌よみに与ふる書』、歌集『竹の里歌』、随筆『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』など多い。
子規はこの場所に明治二十七年(一八九四)二月から住み、同三十五年(一九〇二)九月十九日病のため没す。
母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
昭和二十年(一九四五)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和二十五年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
史跡に指定されている土地の面積は四〇五・六平方メートル。 |
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中村不折旧宅(書道博物館)
子規庵の斜め向かいにある。位置的にはねぎし三平堂の裏に当たる。 |
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中村不折旧宅(書道博物館)
中村不折は、明治・大正・昭和初期の洋画家で書家であり、慶応二年(一八六六)七月十日江戸八丁堀に生まれた。幼名をニ太郎という。少年時代を長野で過ごし明治二十年(一八八七)上京し、浅井忠や小山正太郎に師事し、明治美術会に出品するほか、「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。明治三十四年(一丸〇一)から四年間フランスに留学し、ラファエル・コランやジャン=ポール・ローランスの教えを受けた。帰国後は、太平洋画会や帝国美術院の会員として展覧会活動を行う一方、太平洋美術学校校長として後進の育成にも力を入れ、多くの逸材を育て美術教育にも貢献した。
書道界では、書家としての活動の他に書道博物館の創設者としても知られている。昭和十一年(一九三六)十一月三日に開館した書道博物館は、中国と日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館で、重要文化財十二点、重要美術品五点を合む一万六千点が収蔵されている。昭和二十年(一九四五)四月の空襲で中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、博物館とその収蔵資料および不折の胸像や石燈籠などは焼失を免れた。不折は太正二年(一九一三)から亡くなるまでの三十年間、この根岸の地に往んだ。昭和十八年(一九四三)六月六日七十八歳で死去、多磨霊園に葬られた。 |
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中村不折旧宅(書道博物館)から見た根岸子規庵 |
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子規庵前の駐車場角で左折
辺り一帯はラブホテル街であり、昼間だから良いが、あまり歩きまわりたくない。 |
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突き当りで右折、尾久橋通りへ |
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尾久橋通り 根岸小前交差点で右折、尾竹橋通りへ |
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尾久橋通り 根岸小前交差点で右折、尾竹橋通りへ |
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尾竹橋通り 根岸小前交差点 豆腐料理 笹乃雪
入口の左の黒塀に根岸子規会の資料が貼られている。料亭鶯春亭の資料で「笹乃雪が藁葺屋根の庶民的な店であった」と書かれているが、とてもそんな雰囲気ではなく、高級料亭の趣である。 |
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尾竹橋通り 根岸小前交差点 笹乃雪前 正岡子規 直筆句碑 |
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尾竹橋通り 根岸小前交差点 笹乃雪前 正岡子規 直筆句碑
みなづきや
ねぎしすずしき
ささのゆき
あさがおに
あさあきなひす
ささのゆき |
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尾竹橋通り 根岸小前交差点 笹乃雪
笹乃雪の名の起こり
笹の雪の祖先玉屋忠兵衛なる者、其の頃未だ江戸中にきぬごし豆腐など無かりしに、此きぬこしを発明せしを以て初見とし上野東叡山の御用を承り居り候。
輪王寺様の御賞賛に預かり、此れは笹の上に積りし雪の如き美しさよと仰せられ、笹の雪と名付けるべしとて御祐筆に命ぜられ、御揮毫のうへ賜はりしものなり。 |
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尾竹橋通り 鶯谷駅前交差点で左折、言問通りへ
寛永寺陸橋下をくぐり抜けると鶯谷駅である。 |