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不忍通り 団子坂下交差点で右折、団子坂を上る
文京区のB−グルバスも団子坂を上る。 |
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団子坂を上る
団子坂は、潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」 (御府内備考)
「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 |
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大観音通り 団子坂上交差点
B−グルバスはこの交差点で右折する。森鴎外の旧居である観潮楼は、この交差点を少し過ぎた所にある。 |
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大観音通り 森鴎外観潮楼跡
森鴎外が向丘の後に漱石が住んだ家から移り、明治25年から死ぬまで住んだ住居跡である。汐見坂上にあったので、観潮楼と名づけた。ここで雁、高瀬舟などが書かれた。 |
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大観音通り 森鴎外観潮楼跡
現在改築工事準備中で、その間来年(平成22年)2月まで耐震工事中の駒込保育園が借りている。 |
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大観音通り 森鴎外観潮楼跡
森鴎外(1862〜1922)は明治25年(1892)1月から大正11年(1922)7月9日に60歳で没するまで、この地に住み、多くの名作を残した。 鴎外は邸宅に二階建で12畳の書斎を増築し、遥か遠くに品川沖が眺められたので観潮楼と命名した。
ここを文学活動の処点とした鴎外は「青年」「雁」や、「阿部一族」「高瀬舟」などの歴史小説、さらに「渋江抽斎」に至る独自の考証史伝作品を発表した。また、明治40年(1907)から催された観潮楼歌会には、与謝野寛(鉄幹)、石川啄木など多くの詩人や歌人が参会して、鴎外を中心とした文学者の集まりが形成された。
観潮楼は昭和12年(1937)の火災および昭和20年(1945)の戦災により焼失したが、図書館の南側にある旧表門の礎石、敷石や庭園内の老銀杏、庭石(幸田露伴、斉藤緑雨ゆかりの三人冗語の石)などに、当時の面影が偲ばれる。日本文学史上、意義深いこの地に、昭和37年鴎外記念室をもつ区立鴎外記念図書館を開設。 |
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大観音通りを西進
大観音とは、駒込学園前交差点にある駒込大観音(光源寺)に由来する。 |
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大観音通り 駒込学園前交差点
手前が駒込学園で、交差点の向いに駒込大観音(光源寺)がある。 |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺) |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺)
高さ約6mの駒込大観音がある。7月9・.1O日の「四万六千日」の緑日のほおづき市で知られる。 |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺)
駒込大観音縁起が銅板に彫られているが、ほとんど読めない。 |
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大観音通り 駒込学園前交差点に戻り右折 |
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旧町名 駒込千駄木町
駒込の名称は、むかし牧場があったからといわれる。
「御府内備考」には、古代すさのを素遠烏山と唱え、一帯が林であった。日本武尊はこの林に駒を集め、木々につながれたのを、駒こみたりといったので、素盞鳥山を改めて駒込林と唱えたという。
「新編武蔵風土記稿」には次の記事がある。
昔は駒込村に属した。この辺すべて雑木林で、ここから薪を伐り出し、一日におよそ千駄にも及んだので、千駄木山と唱えた。また、この林は太田道灌が植えた栴檀の木が多く、栴檀木林から後に千駄木と字を改めた。
元文年間(1736〜41)町屋となった。 |
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夏目漱石旧居跡
右の女性は夏目漱石旧居跡の碑を携帯で撮影中である。
日本医科大学同窓会館前にあり、漱石がイギリス留学後に住んだ。吾輩は猫である、坊ちゃんなどを書いた。家は犬山市の明治村に移築されている。ちなみにこの家は漱石の住む13年前に森鴎外が住み、後に団子坂上の観潮楼に移った。
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。小説家。この地に、漱石がイギリ ス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住 んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏) |
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夏目漱石旧居跡
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の 筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家,,と呼ばれ親しまれた。
この地で、『倫敦塔』『坊っちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
石碑は川端康成の書である。 |
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日本医大前交差点 日医大つつじ通りを渡る
左折すると日本医大である。B−グルバスは日医大つつじ通りを右から左に向かう。右折すると本郷通りに、左折すると不忍通りに向かう。 |
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東大 地震研究所脇を進む
本来は地震研究所の北西角で左折して根津神社に向かう。東大の施設ではあるが、何かが分からず延々と続く並木に惹かれて歩いた。 |
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「青年」の散歩道を南下
断言はできないが、森鴎外の小説「青年」に因むかもしれない。 |
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東大 地震研究所
施設が地震研究所と分かったので、「青年」の散歩道を戻る。 |
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東大 地震研究所
大正十四年十一月十四日に地震研究所設立の官制が施行され、安田講堂裏に建物がつくられることとなった。昭和二年三月に着工し、翌三年三月に竣工した。建物は地下二階付きの鉄骨鉄筋コンクリート構造二階建てで、建築学科教授内田祥三先生が設計されたものであった。大地震が襲来しても建物内で観測や研究が出来るようにと、当時の標準設計震度の二倍の計算で設計された。 |
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東大 地震研究所
地震計を型どった石飾りである。 |
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地震研究所の北西角で左折 |
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東大の構内に沿って東進 |
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新坂(権現坂・S坂)を下る
下に根津神社の有料のつつじ苑が真下に見える。 |
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新坂(権現坂・S坂)を下る
本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・ 右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ・・・」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。
根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。 |