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万歩計



(From H14-10-28)

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掲示板(一言どうぞ)


団子坂下交差点〜駒込大観音〜根津新坂・S坂

【関連サイト】   文京区 コミュニティバス B−グルバス
散策点描 特選シリーズ コミュニティバス 
日暮里駅開業100周年記念 レトロな街「谷中・根津・千駄木」を歩く(H17-04-09)


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不忍通り 団子坂下交差点で右折、団子坂を上る 不忍通り 団子坂下交差点で右折、団子坂を上る 

文京区のB−グルバスも団子坂を上る。
団子坂を上る 団子坂を上る 

団子坂は、潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」   (御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外夏目漱石高村光太郎が居住していた。
大観音通り 団子坂上交差点 大観音通り 団子坂上交差点 

B−グルバスはこの交差点で右折する。森鴎外の旧居である観潮楼は、この交差点を少し過ぎた所にある。
大観音通り 森鴎外観潮楼跡 大観音通り 森鴎外観潮楼跡 

森鴎外が向丘の後に漱石が住んだ家から移り、明治25年から死ぬまで住んだ住居跡である。汐見坂上にあったので、観潮楼と名づけた。ここで雁、高瀬舟などが書かれた。
大観音通り 森鴎外観潮楼跡 大観音通り 森鴎外観潮楼跡 

現在改築工事準備中で、その間来年(平成22年)2月まで耐震工事中の駒込保育園が借りている。
大観音通り 森鴎外観潮楼跡 大観音通り 森鴎外観潮楼跡 

 森鴎外(1862〜1922)は明治25年(1892)1月から大正11年(1922)7月9日に60歳で没するまで、この地に住み、多くの名作を残した。 鴎外は邸宅に二階建で12畳の書斎を増築し、遥か遠くに品川沖が眺められたので観潮楼と命名した。
 ここを文学活動の処点とした鴎外は「青年」「雁」や、「阿部一族」「高瀬舟」などの歴史小説、さらに「渋江抽斎」に至る独自の考証史伝作品を発表した。また、明治40年(1907)から催された観潮楼歌会には、与謝野寛(鉄幹)、石川啄木など多くの詩人や歌人が参会して、鴎外を中心とした文学者の集まりが形成された。
 観潮楼は昭和12年(1937)の火災および昭和20年(1945)の戦災により焼失したが、図書館の南側にある旧表門の礎石、敷石や庭園内の老銀杏、庭石(幸田露伴、斉藤緑雨ゆかりの三人冗語の石)などに、当時の面影が偲ばれる。日本文学史上、意義深いこの地に、昭和37年鴎外記念室をもつ区立鴎外記念図書館を開設。
大観音通りを西進 大観音通りを西進 

大観音とは、駒込学園前交差点にある駒込大観音(光源寺)に由来する。
大観音通り 駒込学園前交差点 大観音通り 駒込学園前交差点 

手前が駒込学園で、交差点の向いに駒込大観音(光源寺)がある。
大観音通り 駒込大観音(光源寺) 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 
大観音通り 駒込大観音(光源寺) 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 

高さ約6mの駒込大観音がある。7月9・.1O日の「四万六千日」の緑日のほおづき市で知られる。
大観音通り 駒込大観音(光源寺) 大観音通り 駒込大観音(光源寺) 

駒込大観音縁起が銅板に彫られているが、ほとんど読めない。
大観音通り 駒込学園前交差点に戻り右折 大観音通り 駒込学園前交差点に戻り右折 
旧町名 駒込千駄木町 旧町名 駒込千駄木町 

 駒込の名称は、むかし牧場があったからといわれる。
 「御府内備考」には、古代すさのを素遠烏山と唱え、一帯が林であった。日本武尊はこの林に駒を集め、木々につながれたのを、駒こみたりといったので、素盞鳥山を改めて駒込林と唱えたという。
 「新編武蔵風土記稿」には次の記事がある。
 昔は駒込村に属した。この辺すべて雑木林で、ここから薪を伐り出し、一日におよそ千駄にも及んだので、千駄木山と唱えた。また、この林は太田道灌が植えた栴檀の木が多く、栴檀木林から後に千駄木と字を改めた。
 元文年間(1736〜41)町屋となった。
夏目漱石旧居跡 夏目漱石旧居跡 

右の女性は夏目漱石旧居跡の碑を携帯で撮影中である。

日本医科大学同窓会館前にあり、漱石がイギリス留学後に住んだ。吾輩は猫である、坊ちゃんなどを書いた。家は犬山市の明治村に移築されている。ちなみにこの家は漱石の住む13年前に森鴎外が住み、後に団子坂上の観潮楼に移った。
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。小説家。この地に、漱石がイギリ ス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住 んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
夏目漱石旧居跡 夏目漱石旧居跡 

 当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の 筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家,,と呼ばれ親しまれた。
 この地で、『倫敦塔』『坊っちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
 漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。

石碑は川端康成の書である。
日本医大前交差点 日医大つつじ通りを渡る 日本医大前交差点 日医大つつじ通りを渡る 

左折すると日本医大である。B−グルバスは日医大つつじ通りを右から左に向かう。右折すると本郷通りに、左折すると不忍通りに向かう。
東大 地震研究所脇を進む 東大 地震研究所脇を進む 

本来は地震研究所の北西角で左折して根津神社に向かう。東大の施設ではあるが、何かが分からず延々と続く並木に惹かれて歩いた。
「青年」の散歩道を南下 「青年」の散歩道を南下 

断言はできないが、森鴎外の小説「青年」に因むかもしれない。
東大 地震研究所 東大 地震研究所 

施設が地震研究所と分かったので、「青年」の散歩道を戻る。
東大 地震研究所 東大 地震研究所 

大正十四年十一月十四日に地震研究所設立の官制が施行され、安田講堂裏に建物がつくられることとなった。昭和二年三月に着工し、翌三年三月に竣工した。建物は地下二階付きの鉄骨鉄筋コンクリート構造二階建てで、建築学科教授内田祥三先生が設計されたものであった。大地震が襲来しても建物内で観測や研究が出来るようにと、当時の標準設計震度の二倍の計算で設計された。
東大 地震研究所 東大 地震研究所 

地震計を型どった石飾りである。
地震研究所の北西角で左折 地震研究所の北西角で左折 
東大の構内に沿って東進 東大の構内に沿って東進 
新坂(権現坂・S坂)を下る 新坂(権現坂・S坂)を下る 

下に根津神社の有料のつつじ苑が真下に見える。
新坂(権現坂・S坂)を下る 新坂(権現坂・S坂)を下る 

 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
 森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・ 右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ・・・」とある。
 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。
 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。



 
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